■2018.02

日めくり 2018年02月(平成30年)       



2018.02.01(木) 月光値千金

昨日は仕事帰りにレイトに行くつもりでいたところ、実家の母に呼び出された。
例によって用件といえるほどのこともなく、わざわざ顔出すほどのことかと憤慨する。
こういうことが重なると、いざという時に動きが鈍くなりそうなのが困るのだ。
しかし映画に行ってしまったら、夜空を見上げることもなかったろうと考え直す。
月が地球の陰に隠れ、ほんのりと輪郭が輝きだしていく。月食が始まった。
「月光値千金」などと言うものの、月は太陽の光で輝いていることを思い出させる。
月の満ち欠けが地球によるものだとは普段、考えたことはないが、
月食をちゃんと見るのはおそらく小学生の時以来ではなかったか。
面白かったのが、月食なのだからもっと真っ暗になるのかと思いきや、
周囲の木々の影がシルエットのように浮かんでいたこと。
冬の最中で葉を落とした枝の影が夜に照らされながら、その枝越しに月食を見る。
いかにも冬の月食らしくて面白いなと思った。
道の向こうから若い女の子がスマホを見ながら歩いてくる。
あゝ、なんてもったいないことを。


2018.02.02(金) 『スリー・ビルボード』はアカデミー脚本賞の大本命

仕事帰りに松岡茉優主演の映画を観るつもりで、池袋の映画館に向かう。
ところが何を勘違いしたか、すでにこの日の上映が終わってしまっていた。
未だに同じ映画館がひとつの映画を朝から晩まで上映していると思っているのだ。
そこで帰るのも癪なので、せっかくだから予備知識のない映画を観ることにした。
ところがチケットを求め、売店でポップコーンを買ってから気がついた。
さらなる勘違いで、その映画が始まるまであと2時間半もあるではないか。
こりゃ参った…ポップコーンを買っているので、めし屋で時間つぶすことも出来ない。
丁度いい頃合いで松坂桃李の『不能犯』というのが始まろうとしている。
時間的にも大丈夫だとなって、図らずも2本の映画を観ることになった。
『不能犯』は「三行の映画評」でも触れたが、とても金を払って観る映画ではない。
ところが続いて観た『スリー・ビルボード』。これにやられてしまった。
「予備知識のない映画」と書いたが、アカデミー賞6部門ノミネート作品だった。
映画を観るときに予備知識くらい余計なものはないのだ。
他はまったく知らないが、おそらくアカデミーの脚本賞は確実だと思えるくらい、
先の展開がまったく読めず、思い込みがことごとく裏切られていく。
最近は“先読み不可能”というキャッチコピーが氾濫しているが、
予測の裏をかこうと展開が破綻し、行き当たりばったりになる映画が少なくない中、
『スリー・ビルボード』は緻密に計算された“裏切り”で観客を翻弄していく映画だった。
かといって、決して伏線を張ってミスリードで観客を騙す類いの映画ではない。
まず娘を何者かにレイプされた挙句に焼き殺された母親の悲しみが描かれ、
犯人を捕まえられない警察と警察署長をなじるロード看板を立てる。
これで母親は地元警察を敵に回し、町の人々から怪訝な視線を浴びることになるのだが、
このミルドレットお母さんの無念に観客の誰もが感情移入しかけたところで、
映画は思わぬ方向に転がっていく。
それが今まで見たことのないような転がり方なので、「えっ?」と戸惑ってしまう。
さらに一体この映画はバイオレンスなのかハートウォーミングなのかもわからくなる。
やがてそれが監督・脚本であるマーティン・マクドナーの意図だと知り、
否応なしに映画に乗せられてしまうのだ。もうお見事だとしかいいようがない。
とにかく映画館に到着するまで、まったく観る予定のなかった映画だったが、
今はなんの予備知識もなく『スリー・ビルボード』を観られたことに感謝したい。


2018.02.03(土) 松岡茉優が楽しすぎる『勝手にふるえてろ』

松岡茉優を最初に知ったのはNHK朝の連ドラ『あまちゃん』から。
「海はないけど夢はある、埼玉在住アイドル、NOオーシャンの元気印」
例のGMT47の入間しおり役だった(なんで「例の~」なんだろ)。
新人女優が多い中で、彼女の安定した演技が印象的だったが、
後から『桐島、部活やめるってよ』での学校同調圧力の権化・沙奈だったとも知る。
あの沙奈の嫌な感じが、映画全体ののっぴきならぬトーンを決定づけたと思うだが、
演技力もあり、司会からテレビのバラエティもこなせる“なんでも屋”でもあるため、
ある種の「使い勝手の良さ」にあの沙奈が埋没してしまっている印象はあった。
もちろんオヤジ的に、今さら若いタレントに入れ揚げるつもりはない。
つもりはないのだが、彼女の芝居が躍動する素材があればとは思っていた。
綿矢りさ原作、大九明子監督『勝手にふるえてろ』は松岡茉優の映画初主演となった。
原作は読んでいない。この監督も初めてだ。それにしてもまた女性監督の登場だ。
果たして松岡茉優は燃えていた。喜怒哀楽をすべて見せ切り、歌まで唄った(笑)。
今、持っている引き出しの中身を全部ぶちまけたような、まるで松岡茉優ショー。
その彼女の躍動がそのまま映画のテンションとなり、楽しい映画に仕上がったが、
今後は“使い勝手の良い”彼女のことだから、脇に回ることも多いと思われるので、
何気ない日常描写に、松岡茉優の伸びシロを感じたことに注目したい。
楽しみは6月公開予定の是枝裕和の新作『万引き家族』か。
リリー・フランキー、安藤サクラ、池松壮亮、高良健吾、樹木希林という顔ぶれの中で、
松岡茉優がどんな芝居を見せるのか、大いに期待したい。


2018.02.04(日) 童謡「まめまき」と南々東

小学唱歌というものは大概は子供の頃に耳にしているはずだが、
節分に歌う「まめまき」だけは大人になるまで知らなかった。
 ♪鬼は外~福は内~ぱらっぱらっぱらっぱら豆の音~鬼はこっそり逃げてゆく~
知ったのは節分時、スーパーの食品売り場でのエンドレステープだった。
この単純で短い歌を繰り返し聞かされる店員さんは気の毒だが、
調べてみると作られたのは昭和の初期らしい。
何故だか私の耳にはかすりもしなかったが、我々世代はみんな知っているのだろうか。
「みんなが知っていそうなことを自分は知らない」
たまにそういうことってある。
今、スーパーに行くと、定番だった紙製の鬼のお面と大豆のセットは隅に追いやられ、
特設コーナに設けられた恵方巻きがド~ンと幅を利かせている。
関西発祥だというが、関西人曰く「子供の頃はなかった」とも聞く。
あろうことか崎陽軒も恵方巻を売っているではないか。
シウマイを巻いているのだろうか。


2018.02.05(月) 吉田大八監督作品『羊の木』

自ら吉田大八シンパと言い切る職場の後輩と仕事帰り、『羊の木』を観る。
この監督の映画は『桐島、部活やめるんだってよ』しか観ていないが、
私もあれ一本で、この監督の作家性を身に沁みて納得させられていた。
『羊の木』は山上たつひこ&いがらしみきおという凄いコンビの漫画が原作。
残念ながら漫画は読んではいないが、かつてふたりには夢中にさせられていたので、
原作がタダゴトで済んでいるわけがないのは想像がつく。
そのタダゴトで済まされていない原作を、いかに吉田大八が映像にするのか、
私は注目をそれ一点に絞って『羊の木』と対峙した。
舞台は架空の魚深市。「いいところですよ。人はいいし、魚も美味いし」という港町に、
国の実験プロジェクトとして、殺人犯たち6人が集められる。
目的は受刑者の更生、刑務所の経費節減、町の過疎化対策と色々あるらしいが、
とにもかくにもひと癖もふた癖もある連中ばかり。
この6人と、その受け入れを担う市役所の青年が織りなす悲喜交々を物語の骨子として、
異物が投げ込まれることで、不穏な空気が徐々に広がっていく緊張感を描いていく。
映画は最後までその緊張感を保ちつつ、土着の奇祭を織り交ぜながら進行するのだが、
ただ、どうしても私の悪い癖で、監督の過去作との比較になってしまう。
つまり唯一の『桐島~』がちょっとした出来事で学校に波紋が広がっていくのに対し、
『羊の木』は国家プロジェクトで仕向けられた設定の「あらかじめ感」というか、
なるようにならざる得ないジャンル映画感が少々残念な気がしてならなかった。
しかし役者の個性を最大限に生かしきる力量はさすがに吉田大八ではなかったか。
この映画では松田龍平と優香が素晴らしく、まさに演技賞ものだった。
その彼らの個性を受け切った錦戸亮の普通の青年も特筆だったのではないか。
おそらく二度観るともっと深い感想が出てくるような気がしつつ、
出来れば吉田大八にはオリジナルストーリーでやってほしいと思うのだ。


2018.02.06(火) 『アメリ』がフェイバリット・ムービーになった日

封切り当時はシネマライズでの単館公開だった。
ゲテモノ専門のアルバトロスが『アメリ』を勘違いして買い付けたのは有名な話だが、
つくづく可愛らしくも変な映画だ。とにかく癖のある映画には違いない。
一時期、渋谷のライズで映画を観ることはファッションでありステータスだった。
『バグダッド・カフェ』『トレイン・スポッティング』『レザボア・ドッグス』etc…。
単館ブームの最前線であり、観客が映画を劇場で選んだ最後の時代だったか。
ライズの全盛期が、私がビデオ屋にコンクリート詰めにされていた頃と重なるので、
数えるほども出掛けていないのだが、『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』と並び、
『アメリ』の封切りをライズで観たことは私の密かな記念でもある。
満員の観客の殆んどが女子。そのデザイン性からも渋谷文化の象徴ともいわれたが、
おかげで変なカルト化を免れたともいえる。なんの、オジサンにも十分イケる映画。
去年15年ぶりに観て、改めてこの映画を素晴らしいと感じたが、
もしや私のフェイバリット・ムービーの一本になるのではないかとの思いもあり、
代休を使って、平日の昼日中、近所のイオンシネマに行って来た。
もうすぐ閉館してしまうシネコンの「さよなら企画」での上映だが、
シネコンの最後に『アメリ』がセレクトされたのは、いかにこの作品が愛されているか。
おかげで私がフェイバリット・ムービーを確信をするための機会となった。
16年が経ち、渋谷文化の象徴などという余計なノイズから開放されても、
『アメリ』はおしゃれな映画で、愛されることで生き長らえる映画なのだと思う。
そして『アメリ』は私のフェイバリット・ムービーの一本となったか?
なった。それは確信した。カフェ・ド・ムーランでぜひカフェを飲んで過ごしてみたい。
サンマルタン運河に架かる橋の上から水切りをやってみたい。
思うに私はアメリというヒロインそのものが好きなのではなく、
アメリの閃きの洪水に彼女の絶対的孤独を見出し、そこに共鳴しているのではないか。
23歳の妄想好きの女子の話を、57歳のオッサンが愛してしまってもいいではないか。


2018.02.07(水) 映画『デトロイト』に思う好き嫌い

以前も書いたが、私は映画を「好きか、そうでもないか」で評価する。
割と長い年月をかけて「嫌い」という概念を排除するようにしてきた。
「嫌い」だと感じても、たまたま「相性が悪かった」のだと思うようにしている。
それはどんな映画にも必ず良い部分があるのだから、それは認めようなどと、
テレビの映画解説者のつもりでいるわけでもなんでもなく、
ある時、学生時代のレビューを読み返し、あまりに上から映画を見下していることに、
無性に胸糞が悪くなった瞬間があったからなのだ。
見せる側と観る側が同等のわけはない。作り手は絶対に観客の上に存在するべき。
もちろん、そうはいってもダメな映画はどうしても酷評してしまうのだが、
厄介なのは明らかに好きではないのだけど、良い映画だと認めざる得ない映画か。
これは客観的にはダメな映画を、どうにも好になってしまうパターンより困る。
“剛腕” キャスリン・ビグロー女史の『デトロイト』がそんな映画だった。
実は前作『ゼロ・ダーク・サーティ』でも同じ思いが過ったのだが、
頭の中ではいい映画だと理解しても、どうも心が拒否してしまうというか、
彼女がフィルムに刻むリズムが私とはどうも同調出来ない気がするのだ。
その意味でクリント・イーストウッド作品と真逆の関係にある。
「良し悪し」には理屈がつくが、「好き嫌い」は生理的なものとの思いもあるのだ。
『デトロイト』でいえば、決して話題の40分の尋問シーンが辛かったわけではない。
目をそむけたくなったとの声にも、それほどとは思わなかったし、
痛ぶられる黒人の若者たちに、感情移入することもなかった。
そもそも石井輝男のグロ映画の私刑(リンチ)描写の方が観ていてよっぽど辛い。
ただ、ちょっとしたきっかけで暴動が勃発していく冒頭に前のめりになっていたので、
アルジェ・モーテルでの一件で強引に急ブレーキを掛けられたような気にはなった。
それは私が緊張感よりも緊迫感を欲っしていることと無関係ではない気がする。
ビグロー女史の映画はゴツゴツと消化困難な引っ掛かりがある。
「良い」のだけど「嫌い」の、何ひとつの答えてにはなっていないのだけど。


2018.02.08(木) 眞子さまの結婚延期と宮内庁

そもそも婚約発表がNHKのスクープによって前倒しで行われたといわれている。
今度は週刊誌報道が出たタイミングでの結婚延期の発表となった。
私は当事者のお二人に同情するとともに、宮内庁の不始末であると思っている。
そもそも天皇陛下の退位と即位などすでに既定路線ではなかったのか。
何をドタバタしているのか。マスコミも大概だが宮内庁の対応もお粗末だ。
お相手の小室家の家庭の事情を結局裏付けしてしまったではないか。
「私たちの未熟さゆえであると反省するばかりです」
たかが役人風情が、妃殿下にこんなことをいわせるんじゃない。


2018.02.09(金) 映画『ジュピターズ・ムーン』の浮遊感

日本に入って来るヨーロッパ映画の大半はイギリス、フランス、イタリア国籍。
その他ヨーロッパ諸国の映画で安定的に公開されるのは、思いつくままに名を挙げると、
映画ファンなら誰もが知るスウェーデンのイングマール・ベルイマンや、
ポーランドのアンジェイ・ワイダといった巨匠クラスか、
スペインのカルロス・サウラ、ペドロ・アルモドバル、
デンマークのラース・フォントリアーといった鬼才と呼ばれる映像作家くらい。
ハンガリーの映画を今まで観たことがあったかどうか定かではないが、
この辺りのヨーロッパ映画に対する私の知識はあまりに心細い。
そこで「ハンガリー映画」の括りで調べてみると、
『アンダーグラウンド』『サウラの息子』『ニーチェの馬』など、
意外と聞き覚えのあるタイトルが出て来たので「へぇ~」となった。
コーネル・ムンドルツッオ監督作品『ジュピターズ・ムーン』を観て思ったのは、
その撮影技術の卓抜さと、ある傾向を示しながらもエンタティメントであったこと。
私が知らなかっただけで、ハンガリー映画は珍しいものではなかったということか。
突如、空中を浮遊し、重力を操れる能力に目覚めた少年アリアンの物語。
ファンタジーかと思いきや、アリアンはシリア難民。
シリアの逃亡者はヨーロッパで浮遊するのみかという問いかけのようでもあり、
喧騒に蠢く人々が奇跡を仰ぎ見ることで、神の存在を自覚する物語のようでもある。
何れにしても少年が見降ろす街に漂う、殺伐とした不穏な空気は、
とてもファンタジーであろうはずはなく、ヨーロッパが抱える病巣を映し出している。
それにしても三半規管を刺激して止まない無重力の空中浮遊の映像と、
ローアングル長回しで見せる、画期的な超ド迫力のカーチェイス。
ハンガリー映画がこれほどまでの映画テクニックを擁していたのは驚きだった。
もちろん『ジュピターズ・ムーン』は興行街ではあくまでも辺境の一本であり、
観る者万人が絶賛して憚らない映画とはいえない。
ただ、少なくとも私はこの映画を見ている最中、ずっと幸福の中にいた。


2018.02.10(土) 平昌五輪開会式

何ともときめくものがない冬季オリンピックが開会した。
開会式も観る気がしないまま、テレビも見ずにやり過ごしてしまう。
ソチ、バンクーバーと比べても気分が盛り上がってこない。
開催が韓国だから気が乗らないとまで書くつもりはないが、
(結局書いているが)
そういえばソウル五輪の時もあまりいいい印象はなかった。
日本人選手がメダルを取れば少しは違うのだろうか。


2018.02.11(日) 散髪と中二病

髪が伸びたら床屋に行く。
2000円以上の床屋には行かない。
それこそ「貧乏人の髪切り」。すでに洒落っ気は消え失せた。
床が白く散らかっていく。
もはや黒よりも白が多いだろう。
思えば鏡で自分を凝視するなど床屋でしかしなくなった。
眼鏡を外しているので鏡の自分はぼんやりしているが、
さすがに老けたと思う。還暦カウントダウンなので当り前だが、
今この瞬間を「初老」だと認めるには幾ばくかの抵抗があるのは、
頭の中は中学二年生から進歩していないと自覚しているからだろう。
「中二病」を最初に言ったのは伊集院光だが、まさに私は中二のままだ。
あの時から根本の趣味は変わっていないし、
性格も変わっていない。
ただあの頃の漲るような性への憧れはすっかり失った。
……って、何を書いてる。


2018.02.12(月) また『仁義なき戦い』から物故者が

「あの神原の馬鹿たれが・・・」
川地民夫の訃報が飛び込んできた。
我が青春の『仁義なき戦い』の主要メンバーが次々と消えて行く。
菅原文太、松方弘樹、渡瀬恒彦、金子信雄、成田三樹夫、室田日出男、川谷拓三、
山城新伍、加藤武、夏八木勲、小池朝雄、黒沢年男・・・・
そして深作欣二、笠原和夫、津島利章。
45年も前の映画なのだから、そういうことなんだろうな。


2018.02.13(火) MAD MAX LOVE ♡

一日空けて『マッドマックス』シリーズを3本続けて観た。
今さらもいいところだが、今、私の中でマッドマックス熱が急上昇中だ。
いかにも低予算のオーストラリアのインディーズな第一作。
近未来の固定観念を覆し、あらゆるエンターティメントに影響を与えた第二作。
そしてまたぞろ『怒りのデス・ロード』。いやはや燃える、燃える。
第一作目はほぼ40年ぶりの再会だったが、まったく古びていない。
荒廃したアスファルトの一本道を疾走するV8インターセプター。
牧歌的な田舎町に炸裂する狂気。警官VS暴走族の攻防がひたすら怖い。
このヤバさを全体に内包し、画面に充満する怒りは今も圧倒的だった。
そして漫画『北斗の拳』の原型となった第二作。
封切りで観たときは、警官マックスが伝説の高みになったことに驚嘆したが、
今思えば、その時、革命が起きているのを映画館の闇の中で目撃していたわけだ。
そして3回目となる『怒りのデス・ロード』。
一ヶ月のスパンで観たものは「静謐」だった。
なんて静けさが支配している映画なのだろう。
もはや宗教的な荘厳さもを感じるようになってしまっている自分がいて、
悪をも含めて登場人物たちを愛してやまないでいる自分もいる。
あまり入り込み過ぎるとマズいかもしれない。
せめてMAD MAX 愛に留めておこうか。


2018.02.14(水) メダルラッシュ?「金」が欲しい

小平奈緒、高木美帆の1、2フィニッシュを期待したのだけど銀、銅。
そりゃ原選手も渡部選手も沙羅ちゃんも、世界相手に2位、3位は立派だけど、
外野からの無責任な声としては表彰台の真ん中が欲しいのが人情。
どうにもNHKアナの「日本、見事なメダルラッシュ!」が空々しく聞こえてしまう。
この寸止め感、誰か突き破ってほしい。


2018.02.15(木) そうはいうものの

男子ハーフパイプ決勝、平野歩夢の銀は見応えあった。
力が出せず頂点を極めそこなったわけではなく、
平野は完ぺきに力を出し切っての銀。
“絶対王者”ショーン・ホワイトの一か八かの博奕にしてやられたに過ぎない。
ホワイト選手は平野の憧れ的存在だったという。
子供の頃、憧れのホワイト選手と写った少年を見て「いいな~」と思った。
こういう二人だけに去来する物語を想像するのはなにより楽しい。
平野歩夢。新潟県村上市出身。つまりは私の本籍地と同じだ。
私の本籍地が両親の田舎のままなのは単なる無精に過ぎないのだが、
こういうときこそ、同郷の誇りなどと恥知らずにも書いておきたい。


2018.02.16(金) 春は名のみの風の寒さや

職場で毎日のようにいっているが、今年の冬は寒い。
私は都心の寒さは覚悟と備えがない分だけ厳しいと書いているが、
所詮は背中を丸め、手がかじかむ程度のことではある。
日本海側の荒天は記録的で、ニュースを見ても驚くばかり。
福井では国道8号線で10キロ1500台が60時間以上立ち往生。
死者も出た。積雪でマフラーが詰まり排気ガスによる一酸化中毒。
大雪の恐ろしさは佐々木譲の小説『暴雪圏』に詳しいが、
雪に閉ざされ、寒さに凍えながらエンジンを掛けられない心細さ。
とくに夜。ヘッドライトで降り止ぬ雪を照らして絶望的な気分になるのではないか。
立春が2月4日なんて、暦を決めた奴の真意を問いたい。


2018.02.17(土) 怖くて見てられない

スポーツアスリートの「縁起かつぎ」の話はよく聞く。
私はスポーツ観戦者に過ぎないが昔からよく縁起をかつぐ。
例えばハマスタや神宮に阪神戦を観に行く時、
今日はどのルートで行けば縁起がいいのかよく迷う。
そして勝てば、しばらくはそのルートで球場に通う。
巨人戦のときは靴下からパンツの色まで気を配る。
昔は戦況によってラジオの実況をニッポン放送からTBSに行ったり来たりしていた。
そして今、平昌五輪の真っ盛りなのだが、
正直いうとテレビの生放送で競技を観るのは非常に怖い。
スポーツナショナリストの権化となるので、日本人が敗れる様をもっとも恐れる。
だから大抵は生で見ない。私が見ていると負ける気がしてならないからだ。
今、時刻的には男子フィギュアのフリーが終了した頃か。
もちろん、テレビもラジオもつけていない。
そもそもフィギュアなどの採点競技は、縁起云々ではなく、生で見るのは好きではない。
アスリートの鍛え上げられたプレーを観戦するというより、
しくじるな、下手うつなよと見守る緊張感が嫌なのと、
相手国選手に対してしくじれ、コケろと念をかましながら見るのもどうかと思うのだ。
先ほどテレビをつけたらカーリング男子がスイスに惜敗した場面が映り、
ネットで女子も中国に競り負けたとのトピックスも見てしまった。
非常に縁起が悪いではないか。
さて羽生クンはどうなったのか。今、「日めくり」を書く手を止めて見てみよう。
怖い、怖い、ドキドキだ。
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おお!!!羽生が金!宇野も銀ではないか!やったな、凄いな。
・・・・・なんで実況を生で見なかったんだろ(苦笑)


2018.02.18(日) 小平奈緒、お見事!

いやはや昨日と今日の午前中だけでどれほど羽生結弦のリピートを見たことか。
一か八かの演技に賭けた気合が、艶っぽく輝くのが羽生クン最大の武器だろう。
少年の無垢さと大人の色香を自在に行き交う表情。選曲も良かった。
そして宇野昌麿。明らかに羽生ほど流麗でもないが、健気だった。
思わず「頑張れ~」と応援したくなる。
そしてスピードスケート女子500mの大本命、小平奈緒が羽生に続いて頂点に。
とにかく感心したのは小平奈緒の全身から「自信」が漲っていたこと。
4年に一度の大舞台。期待された日本人選手の委縮を何度見てきたことか。
印象に残るのは「練習以上の力は出せないんで」と言い切ったこと。
よくいわれるのが「練習以上の力を出せば頂点は見えてくる」なのだが、
これはもう練習をやり尽くした人にしか出て来ない言葉だ。
これは「練習通りにやれば当然、金」という自信と、
「それ以上速く疾られたら仕方ない」との割り切りにも感じられる。
今まであまりいないタイプの日本人アスリートではないか。
周囲を圧倒する眼光と自信。小平奈緒には孤高のイメージを勝手に抱いていた。
そんな小平がレース後、ライバルの李相花(イ・サンファ)を抱きしめる。
オリンピックアスリートは孤高かもしれないが、孤独ではなかった。


2018.02.19(月) 確定申告に行って来た

昨日、みなとみらいの申告会場まで行って来た。
私は源泉徴収でこと足りるので、両親の申告を請け負っているわけだが、
例によって実家では申告に必要な領収書の整理できていなくて閉口する。
去年は親父の入院と母の白内障の手術があった。
そこそこ医療費は嵩んでいるはずなのだ。
仕方なく病院にお願いして通院と入院の証明書を発行してもらったが、
今度は毎年のことながら会場で長時間並ばされるのに閉口してしまう。
土日に申告できる機会となると人でごった返すのは当然。
税務署はしきりにパソコンでの申告を勧めているようで、
次回からそうしようと思うのだが、なにせ年に一度のこと。
会場に出向き、職員に教わりながら申告用紙を入力する方がどうしても楽なのだ。
来年こそは、と思いながら、
来年もまた長蛇の列に並びながら苛々しているのだと思う。


2018.02.20(火) 只今、読書中

帰宅電車の中はずっとスマホを眺めながら過ごしていた。
たまにはイヤホンを耳に音楽やネットラジオなども聴いていた。
そんな中、何故か活字が恋しくなり、久々に読書道を再開してみようかと思った。
本当は未読のまま棚の肥やしと化している本から読み始めるべきなのだろうが、
再会となれば大風呂敷を広げるではないが、勢いが欲しいなとなって、
おそらく絶対に面白い読書体験になるだろうという確信の元に選んだのが、
R・D・ウィングフィールドの『フロスト』シリーズ。
ずっと以前から読みたかった小説だった。
シリーズ全6作9冊の文庫本を一万円出して「大人買い」してみた。
今、第一作の『クリスマスのフロスト』から手をつけている。
さすがにこの齢になると、揺れる電車の中を活字を追うのも難儀となり、
眼鏡を頭にずらしながらの読書となっているが、やはり面白いのなんのって。
ぼんやりとスマホの画面を見ているより、何倍も豊かな気分で乗車している。
明らかに降車駅の中央林間駅に到着するのが早い。
片道で一時間半の距離だ。この時間を有意義に過ごせるかどうかは大きい。
改めて活字を追いかけるのはいいなと思っている次第。


2018.02.21(水) ラスト2周、高木美帆がいる

表題は清水宏保の解説記事から貰った。
採点やタイムではなく、勝った負けたで決着がつく競技は好きだ。
とくに中央の引きのカメラでの両チームのゴールが面白く、
この決着を伝える画面が実に劇的なのがいい。
女子スピードスケート団体追い抜きで、日本チームは見事金メダルに輝いた。
相手は“氷上の帝国”。身体がひと回りもふた回りも巨大なオランダ勢。
個人の能力ではとても歯が立たない強豪中の強豪だ。
それがチームワークと技術と工夫によって巨大な相手を撃ち破る。
まさに遺伝子レベルで日本人の琴線に触れる勝利の形ではないか。
2年前のリオ五輪の男子400メートルリレーの「日めくり」同様、
ここに高木美帆、高木菜那、佐藤綾乃、菊池彩花の名を留めておきたい。
ただこのパシュートという競技。過酷さの点では常人の計りしれないものがあろう。
前日に放送されたNHKスペシャルを半分驚嘆の思いで見た。
先頭のランナーが受ける風圧を科学的に検証していたが、
とにかく3人が息を合わせて、巧みに隊列を入れ替えなければならない。
猛スピードの中、前の選手との距離は僅か50センチ。
それを実現するために代表は長い間、寝食をともにしたのだという。
団体競技で、ここまで個々の関係の濃密さを要求する競技があるだろうか。
息を合わせる練習の過酷さ、ストレス。
明らかに「助け合う」ことより「失敗を許さない」色合いに染まっている。
そんな彼女たちの姿をそれこそ息が詰まる思いで見ていた。
トップアスリートゆえの確執、妬みを乗り越えなければならない試練もあったろう。
さらに金メダル候補に挙げられているプレッシャー。
ゴールした瞬間の開放感は半端ではなかった。


2018.02.22(木) ウィングフィールド『クリスマスのフロスト』読了

R・D・ウィングフィールド『クリスマスのフロスト』を読了した。
いやはや面白かった。やはり活字はいい、物語はいい。
全6作がすべてミステリ年間ベストワンに輝いたという物凄いシリーズだ。
とにかく次から次へと複数の事件が同時多発し、時間差攻撃的に勃発する警察小説。
初めて知ったのだが、こういうのを「モジュラー型小説」というらしい。
警察小説でモジュラー型といえば複数の署員が関わっててんてこ舞いになるものを、
本作のフロスト警部はほぼひとりでそれを受け入れてしまう。
細かいことは読書道で感想を書いているので割愛するが、
この警部、さぞかし分析能力に長けた颯爽たる名探偵かと思いきや、
薄汚れたレインコートにえび茶色のマフラーを盛大になびかせ、
プレスの利いていないよれよれのズボンを穿いた、見るからにだらしない男。
こんな風体の男、ジャック・フロストの活躍をしばらく楽しんでいこうかと思う。


2018.02.23(金) カーリング女子、韓国に逆転負け

カーリングのルールはオリンピックのたびにおぼえては忘れる程度の興味だが、
平昌では、藤澤五月選手の可愛さをミーハー的に楽しんでいる。
もともと女性の、的を射ろうとする際の一瞬の凛とした表情は美しいもので、
80年代の映画では、アイドルが弓を射る場面が定番的に描かれていた感がある。
『アイコ16歳』の富田靖子、『時をかける少女』の原田知世、
そして『里見八犬伝』の薬師丸ひろ子。みんないい表情をしていた。
藤澤さんのストーンを転がす時の集中した表情はそれらと通じるものがある。
そしてショットの直後の「お願い!」「頼んだよ!」のギャップがたまらない。
一方の韓国のスキップ、キム・ウンジョンの鋭い表情も嫌いではない。
とくに“眼鏡先輩”の愛称が紹介されると余計に好きになった。
この二人の対決は少女コミックのヒロインとライバルのようではないか。
と、少しもカーリングの競技に触れていない(汗)。
日韓対決は延長戦の末、最後にやられてしまい決勝進出はならなかったが、
朝と夜との一日二試合で露出も多く、十分に楽しませてもらっている。


2018.02.24(土) お姉ちゃんがやったぞ!

スピードスケート女子マススタートで高木菜那が見事に初代女王に輝いた。
この競技は初めて見たが、400メートルのリンクを16周して順位を競う。
6400メートルか。素人目にもしんどさが伝わるレースだ。
高木菜那はずっと「美帆ちゃんのお姉さん」と呼ばれ続けてきたという。
この悔しさは想像に難くない。
妹の活躍を見て「正直、コケろと思ったこともあった」という。
姉妹の愛憎もあるが、トップアスリート同士の確執も相当なものだっただろう。
「一番ホッとしているのは両親だと思う」とのコメントも頷けるものがあった。
なにせ高木家は姉が金二つ、妹が金、銀、銅。素晴らしいではないか。
負け続けたことが高木菜那の原動力となったのかどうかは知らないが、
スターの陰に隠れていた選手が、大輪の花を咲かせる姿は気持ちのいいものだ。
今回の五輪で一番嬉しい金だった。
もうラスト一周のカープから直線までの動画を何度繰り返し見たことか。
内側から果敢に先頭に立った高木菜那の見事な差し脚。
レースとしても大興奮の瞬間だった。


2018.02.25(日) 平昌閉幕

開会式の時、「何ともときめくものがない冬季オリンピック」と書いた。
それでも日本がメダルを取れば一変するとの予想もあった。
結果的には予想通りで、金4、銀5、銅4。
13個のメダル獲得は長野を超え、私はスポーツニュースに貼りついた。
とてもメダルを逃した敗者に思いを馳せる余裕などなく、
羽生、小平、高木姉妹の勝利の瞬間を何度も動画で見直した。
やはり私の本性はスポーツナショナリズム一色に染められているのだろう。
次はいよいよ東京だ。あと二年半。それまでくたばるわけにはいかない。


2018.02.26(月) 『招かれざる客』の卓抜した面白さ

「午前十時の映画祭8」もいよいよ大詰めだ。
このスタンリー・ドーネンによる名作は、内容を知らないまま観た。
リベラルを旗印とする新聞社の社長の元に、娘が婚約者を連れてくる。
その婚約者が黒人青年だったため、父親は驚愕し、理念と現実との葛藤に苦悩し、
一方で、黒人青年側の父親も相手が白人女性と知り、激怒することになる。
そして最初に恋人たちを理解し始めたのは両家の妻たちだった・・・。
50年前の映画の内容は至ってシンプルな映画だったが、本当に面白い。
そういえば今回の映画祭には『アラバマ物語』という傑作があったか。
さように黒人差別の映画は今も作られ続けている。
この『招からざる客』が公開された1967年は例のデトロイト暴動の年でもある。
そう思うと、よく1967年にこれだけの映画を完成させたものだと感心してしまう。
スペンサー・トレイシー、キャサリン・ヘプバーン、シドニー・ポワチエという、
稀代の名優たちの舞台劇を思わせる圧倒的な演技もこの映画の面白さの重大要素だ。
とくに複雑な思いに苦悩する父親役を演じたスペンサー・トレーシー。
彼はこの映画の撮影後に急死することになるが、オスカー級の名演だったのではないか。
実際にオスカー受賞は差別主義の権化を演じた『夜の大捜査線』のロッド・スタイガー。あまりの皮肉に少し笑ってしまった。


2018.02.27(火) 米国の銃規制デモに思う

フロリダ州の高校で17人が犠牲になった銃乱射事件。
マイケル・ムーアが銃規制を訴える映画を作ってから早くも16年が経つ。
映画『ボウリング・フォー・コロンパイン』の中でマイケル・ムーアは、
「白人たちの銃依存の根底には、建国以来の先住民族の迫害、黒人奴隷強制で、
いつか彼らに復讐されるという潜在的な不安感があるためだ」と結論づけた。
それで映画によってアメリカが変わったのかといえば、何も変わってはいない。
オバマですら数センチも変えられなかったのだから、永久に無理なのだろう。
そもそも規制するには憲法を変える必要がある。このハードルは途方もなく高い。
トランプなど「教員の銃携行」を推奨せんばかりの勢いだ。
これでは乱射事件の直後、銃の売上が一気に上昇するのもさりあなんか。
何せ全米に出回る銃は3億挺と聞く。3億挺だぜ。ほぼ人口と同じではないか。
むしろこの数を思えば、銃乱射事件数が少ないようにも思えてしまう。
銃規制など夢のまた夢。
銃規制デモにのニュースを見ていると、単なる夢想家の集会に見えてしまう。
そもそも私などアメリカの銃文化を長いこと、娯楽として享受してきたではないか。


2018.02.28(水) 「あっ」という間の2月

平昌五輪もあってか、今年の2月は過ぎるのが早かった。
おそらく生涯でもこれだけ早い2月はかつてあっただろうか。
昔、日銭商売をやっていた頃、3日も少ないのに同じ家賃を払い、
社員に同じ給料を出さなければならない。
だから2月を乗りきるのは大変だった。
しかも今年のように25日の給料日が週末で前倒しとなると、
最後の方は資金繰りでひぃひぃしていた。
そんな日々の頃ですら、もっと2月は長かったと思うのだが。
やはり還暦カウントダウンはあっけないというのは本当なのだろう。



                           

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