■Zatopek Izm
147敗の金字塔
晩年、村山実がトーク番組で天覧試合を振り返って、
「でもあれはファールやけどね」と一言ボソと呟いたとき、
「まだいっとるか?このオッサン」と爆笑したものです。
関東者ですし、野球心がついたとき小山正明は山内一弘との世紀のトレード後。
ファンというにはお恥ずかしい限りなのですけど。
尚、39年の優勝時には小山正明はロッテにトレードされています。
320勝の“精密機械”については、「他球団に移った長身の精密機械よりも小さなザトペック」
という小山正明との比較で村山実に人気が集中したことは容易に想像できます。
“遅れてきた”村山実ファンとして、その全盛期を書物や伝聞などで追体験する中で、
「何故、阪神ファンは小山ではなく村山なのか」という疑問はありました。
それどころか優勝した37年、39年はそれぞれ小山、バッキーに最多勝を譲っています。
バッキー去りし後には江夏豊という稀代の左腕が登場し、
村山実がとくに阪神をひとりで背負っていたのかというとそうでもありません。
村山実は一言でいうと「琴線のひと」だと思っています。
思えば大の男が満場の中で泣く姿をはじめて見たのが村山実でした。
“ザトペック投法”の名付け親は失念しましたが、
あれは五輪長距離三冠のエミール・ザトペックの豪快な走法をなぞったのではなく、
苦しそうに走るエミールの走り方に村山の悲壮感がイメージされたものです。
そこに「愛された男」の真骨頂を垣間見ることもできるのですが、
決して「記録の人ではなく記憶の人」などという陳腐な常套句を当てはめるつもりはありません。
ルーキーで防御率1点台18勝を皮切りに村山実は多くの栄冠に輝いたのも事実。
通算222勝。メジャーリーグ相手に完封、年間防御率0.98などという数字も残しました。
しかし村山実の魅力は147敗の蓄積と、
14年という短い現役期間にこそあるのではないかとも思っています。
ルーキーの年に18勝をあげながら天覧試合で長嶋茂雄にサヨナラ本塁打の洗礼を浴び、
無安打2失点完投という悲劇的な試合で新人王を逃して以来、
ある時はたったひとりの新人打者を相手に判定に怒って退場して悔し涙にくれ、
人差し指と中指の付け根をカッターで切るというおバカなことをしてまでフォークにこだわり、
巨人(東京)なにするものぞという関西共和国の気概を一心に背負って、投球術でかわせばいいものを毛細血管がぶち切れそうなフォームでONに向かって真っ向勝負。
こうして巨人との契約金2200万を蹴って500万で阪神入団した小さな選手の生き様に、
阪神ファンは熱いまなざしを注ぎ、語り草としていったわけです。
少なくとも村山実ほど阪神タイガースを、関西を愛した選手はいないでしょう。
ただこんな話も「負けの美学」などという陳腐な常套句に帰結してしまうのかも知れません。
しかし1500奪三振を長嶋から奪い、2000奪三振も長嶋からというこだわりは、
ある種、非常に「個人」が突出した話で、今のファンには受入れ難いことなのでしょう。
相手が長嶋茂雄だから逃げなかった村山実。
ホームランを打った相手が江夏豊だったからこそ涙した王貞治。
試合を超えたライバル対決における「個人」の方が、
今のFAやメジャー志向に見られる「個人」のあり方よりも自分は愛しく感じます。
不仲を伝えられた村山実と江夏豊。
しかし村山の引退試合で率先して肩車で担ぎ上げたのは江夏でした。
第2期監督時代に罵声とともに追いやったこと、
私はそれを阪神球団と阪神ファンの原罪だと思っています。
何故、球団は村山実を監督に迎えるにあたって、万全の体制を整えてあげなかったのだと。
村山実ほど阪神タイガースを愛し、
甲子園のファンを愛し、
関西を愛し抜いた選手はいない。
私は村山実の勇姿を思い出すとき
いつでも少年に帰れます。
今のファンが気の毒だと思うのは、
やれFAだ、やれメジャーだという時代にあって、
選手の役割もシステム化され、登板間隔も中6日で分担制が当たり前。
もちろんそのことに異を挟むつもりは毛頭ないにしろ、
チームを勝たすことに己の命を賭ける選手を見ることが出来なくなったこと。
村山実とは何かといえば、もう阪神タイガースそのものなわけです。
もう一度言いますが、村山実を語るといつも涙がこみ上げてくるのは、
決して村山実が積み上げた記録の金字塔にではなく
評伝で伝えられる、たった14年の選手生命を身を削るようにして見せてくれた、
147敗の男ざまに対してなのです。
村山実の後に村山実なし。
ことある毎に何度も言ってきたことですが、
甲子園に村山実のレリーフを飾ること。
そして未来永劫、語り継いでいくこと。
わずか61歳で夭逝した魂に対するせめてもの贖罪だと信じています。
◎村山実(1936年12月10日−1972年8月22日)
神戸市生まれ 尼崎市出身
1959年関西大学から阪神タイガース入団
1972年引退(通算年度14年)
登板:509 勝利:222 敗戦:147 投球回:3050
被安打:2271 被本塁打:209 与四死球:696
奪三振:2271 自責点:709 防御率:2.09 奪三振率:6.70
MVP1回(1962年)
沢村賞(1959年、1965年、1966年)
最多勝(1965年、1966年)
最優秀防御率(1959年、1962年、1970年)
最多奪三振(1965年、1966年)
最高勝率(1970年)
ベストナイン(1962年、1965年、1966年)
オールスターゲーム出場8回(1959年〜1961年、1964年〜1967年、1969年)
シーズン最優秀防御率 0.98 (1970年、セ・リーグ記録)
野球殿堂入り(1993年)
a:8096 t:1 y:0