◎鴨川ホルモー
◎鴨川ホルモー
万城目 学
角川文庫
【このごろ都にはやるもの、協定、合戦、片思い。祇園祭の宵山に、待ち構えるは、いざ「ホルモー」。戦いのときは訪れて、大路小路にときの声。恋に、戦に、チョンマゲに、若者たちは闊歩して、魑魅魍魎は跋扈する。京都の街に巻き起こる、疾風怒涛の狂乱絵巻。都大路に鳴り響く、伝説誕生のファンファーレ。】
ひと通り読み終えたあとに、プロローグを読み返す。
「この“ホルモー”という言葉の意味、さらにはその言葉の向こう側に存在する深遠なる世界を知るためには、何よりもまず“ある段階”に達する必要があり、いったん“ある段階”に達したのちには、とてもじゃないが、他人には口外できなくなってしまうからだ。(中略)こうして、“ホルモー”という言葉は、少なくとも先の大戦以降数十年の間、さらにはそれ以前−大正、明治、江戸、安土桃山、室町、鎌倉、平安の時代において−知る者だけが知り、伝える者だけが伝え、かつて王城の地、ここ京都で、脈々と受け継がれてきた。」
長々と引用してしまったが、要は万城目学という作家は冒頭から壮大なハッタリをかましているのだ。そして驚くなかれ、そのハッタリは「ホルモー」なる言葉の一端が明かされる「吉田代替りの儀」においてもまだ全貌は隠されている。なんと文庫版300ページ弱の1/3以上が経過してもハッタリは延々と継続されていく。
しかし、このハッタリ部分で主人公の京大生・安倍くんの恋心や仲間たちとの出会いが紹介され、さりげなく京都独特の街の匂いを伝えていく。この語り口は壮言大語な背景に淡々と日常描写が綴られており、このあたりの緩急はご当地青春小説として悪くないと思った。
確かに、読み終わった感想を率直にいえば「なんじゃこりゃ?」ではある。しかし漫画を読むように楽しく読み終えることが出来た。京都の風情を描きたいのなら、こんな物語にする必要はまるでないのだが、一方で絶対に京都でなければ成立しない物語でもある。案外、私個人の京都の思い出などを綴りながら『鴨川ホルモー』の感想に代えさせていただきましたといっても、万城目学氏は「それはそれでアリです」というのではないか。
陰陽師・安倍晴明の昔から脈々と伝えられるミステリアスな平安京都へのオマージュとも読める小説ではあるのだ。
私は首都圏に住む者にしては、わりと京都には行っている方だと思う。中学の修学旅行を皮切りに、幕末の研究やら仕事やらデートやらで何度か足を踏み入れ、おそらく首都圏内の疎遠な都市と比べれば、よほど京都の方が馴染んでいるという自負はある。決して京都に土着したいとは思わないが、四条大橋から鴨川を眺めていると、こういうところで大学時代の四年間を過ごすのも悪くなかったのでないかと思ったりもする。
京大青竜会のメンバーを中心に描かれている若者像は、決して「今どき」の大学生ではなく、どの学生街にも転がっていそうなノンポリたちだ。
ただ主人公が「鼻マニア」を標榜し、さだまさしに熱狂し、友人の高村がちょんまげスタイルで街を闊歩するというおバカを演じても、そこは天下の京都大学であるわけなので、時折、偏差値の高さをにじませている愛嬌があり、どれほどの苦境に立たされても深刻一歩手前で踏みとどまっているのが、案外『鴨川ホルモー』という小説の生命線だともいえるのではないか。
さて、この小説について真面目に書評めいたものを書くべきかどうかは迷うところではある。くだらないといえば、本当にくだらないのだから。
読めばわかるが、この小説は一種の格闘シミュレーションゲームの様相を呈している。小説世界での独自のルールを設定し、その世界観の中でゲームが遂行される点において、高見広春『バトル・ロワイアル』や上甲宣之『地獄のババぬき』を思い出すことができるのだが、両者とも中学生が殺人サバイバルゲームを展開したり、バスジャックされた中で生き残りを懸けたババ抜きを強要されたりという無茶な話だったにもかかわらず、ルール設定が馴染むにつれて、次第に戦闘への興奮が喚起させられてしまう不思議な感覚があった。そういう面白さも「アリ」なのだ。
おそらく万城目学は『陰陽師』と『バトル・ロワイアル』にインスパイアされつつ、自身の京都での学生生活へのノスタルジーを加味して構想を練ったのだと思うが、『鴨川ホルモー』に戦闘的興奮があったのかどうかはともかくとして、御所を中心に東の京大、西の立命館、北の京産大、南の龍谷という戦闘マップが編成され、各々が実名であるがゆえに醸し出される体育会の大学対抗戦の趣があり、そこを楽しめるかどうかで好き嫌いは分かれてくるのではないかと思う。
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