◎限りなく透明に近いブルー

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◎限りなく透明に近いブルー
村上 龍
講談社文庫


 古書店のセット販売で何気なく買った村上龍『走れ!タカハシ』があまりにも面白く、村上龍に対するイメージが一掃されつつあったのを機会に、読書中にもかかわらず中断してデビュー作『限りなく透明に近いブルー』に切り替えてみた。
 私が学生時代に抱いていた村上龍へのイメージは、「村上春樹と並んで、女の子を部屋に連れ込んだときに本棚に置いてあったら何となく様になる」という陳腐なところから始まって、「TVなどで、その言動がまあまあ面白い文化人」という程度のものだった。

 【福生の米軍基地に近い原色の街。いわゆるハウスを舞台に、日常的にくり返される麻薬とセックスの宴。陶酔を求めてうごめく若者、黒人、女たちの、もろくて哀しいきずな。スキャンダラスにみえる青春の、奥にひそむ深い亀裂…。】

 この当時「文学界の衝撃的な事件」扱いされたデビュー作については、いまや純文学のクラシックとなったのだが、「群像」新人賞から一気に芥川賞を受賞した当時のことは高校一年だった私にも喧騒は聞こえていたので、なるほど“事件”だったのだろう。
 最近になって、今や村上龍本人が選考委員を務める芥川賞の最新作を続けて読んでいるが、この作品なら、今出て来ても相当な物議を醸すのではないかと想像する。これが出た当時、私は角川文庫の横溝正史に夢中だったので、とても手にすることはなかったのだが、もし高校一年のときに読んでいたとしたら、自分がどんな反応をしたのか興味あるところである。
 思い出すのが、友人との会話で「文明批判の欠片もないとウチの国語教師が怒っていた」というもの。そのときは文学=文明批判という狭義で小説を捉えるなど何て不自由な発想だと軽い反発を覚えていたものだが、こうして30年以上が経って漸く本書を読み終えてみると、その国語教師のいわんとすることも何となくわかるような気がした。主張がごもっともというより、そういう批評が出てくる意味がわかったのだ。確かにこれはある意味で「何もない小説」だからである。
 
 表層に描かれるのはセックスとドラッグと空虚な会話と暴力だけ。全編が冷静に酩酊しているというか、薬でラリっているけど神経は研ぎ澄まされているという文体なので、どちらかといえば「本読み」の感性よりも、絵画や音楽を鑑賞する感覚が要求されるような気になり、おかげで文庫版150ページ足らずの文字量の作品であるにも関わらず、通勤電車の中でもページを開けば睡魔に襲われるという繰り返しで、50音の言葉の配列と形で芸術か否か?を問われてしるようで、遅々として進まないキツい読書を強いられることになった。

 「俺はただなあ、今からっぽなんだよ、からっぽ。昔はいろいろあったんだけどさ、今からっぽなんだ、何もできないだろ?からっぽなんだから、だから今はもうちょっと物事を見ておきたいんだ。いろいろ見ておきたいんだ。」
 まあ、かの『限りなく透明に近いブルー』を「好きか?嫌いか?」選択で判断するというのも情けない話であるのだが、文庫本の解説でも指摘されているとおり、これは没主体の文学であるため、上記引用の独白が数少ない主人公・リュウの「意味を持つ言葉」ということになるとすれば、最終的にはそこに共感するか拒絶するかの二者択一から逃れられず、個人的には小説世界の「物語」が持つ素晴らしさを全否定する内容に「文学」だとは認めても「小説」だとは認めたくないという思いは残ってしまった。

 しかし、このデビュー作以降、村上龍は、おそらく当時の芥川賞選考委員たちの予想に反して時代の波を見事に泳ぎきり、今や経済人との対談本『社長の金言』などという本を出すまでになっている。これを転身というのか俗化というのはわからないが。

 とにかく気を取り直して中断していた『走れ!タカハシ』を再開しよう。


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