◎贖罪

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◎贖 罪
湊かなえ
双葉文庫


 そもそも「贖罪」という言葉。そういえば自分からこの言葉を使ったことはない。「謝罪」とどう違うのか。とりあえず辞書を引いてみた。
 ●贖罪[しょくざい]・善行を積んだり金品を出したりするなどの実際の行動によって、自分の犯した罪や過失を償うこと。罪滅ぼし。「奉仕活動によって―する」・神の子キリストが十字架にかかって犠牲の死を遂げることによって、人類の罪を償い、救いをもたらしたという教義。キリスト教とその教義の中心。罪のあがない。●謝罪[しゃざい]・罪や過ちをわびること。「被害者に―する」「―広告」「―スル」・罪やあやまちをわびること。
 なるほど贖罪とは謝罪の先に行うことなのか。文字通り、贖(あがな)うという意味であるため、キリスト教用語となれば重いイメージもある。この湊かなえ『贖罪』は少女のときに贖うことを宿命づけられた女たちが成人後も数奇な運命を辿る重い物語だ。

 【15年前、静かな田舎町でひとりの女児が殺害された。直前まで一緒に遊んでいた四人の女の子たち。娘を喪った母親は言った──あなたたちを絶対に許さない。必ず犯人を見つけなさい。それができないのなら、わたしが納得できる償いをしなさい、と。十字架を背負わされたまま成長した四人に降りかかる、悲劇の連鎖の結末は!?】

 沼田まほかるやこの『贖罪』の湊かなえたちは、「イヤミス」と呼ばれて、今、書店でブームなんだそうな。
 「イヤミス」とは読後の後味がとにかく悪いミステリーのことをいうらしい。これは別に世相を反映したというより、ちょっと前まで「泣けるミステリー」「感動するミステリー」が流行っていたことへの反動だろうと思うが、もともと後味の悪い小説や映画は自分的には全然「あり」だと思っている。
 映画でいえば、ルーカスやスピルバーグがハリウッドを席巻する70年代の後半までは、お気楽なハッピーエンドで終わらない映画の方がもてはやされていたような気がする。どんよりした余韻で映画館を出ようが、そこには確実にカタルシスがあったのだ。
 だから「イヤミス」に癒されると聞いてもそれほど違和感はない。こと余韻ということでは明るく終わるものよりも絶望感を前面に出された方がいつまでも印象に残ることの多いのだ。横山秀夫の短編などはダークな余韻を残して記憶に留まるひとつの典型ではないだろうか。
 
 もっとも「イヤミス」は結果であって、手法であってはならないと思っている。存在は肯定しても、ジャンルとして認めるわけにはいかないのではないか。「イヤミス」が前提となった途端に衝撃性は薄れるだろう。
 よほどの文学好きでない限り、どこか晴れ晴れとした気分で本を閉じたいのは読者心理だ。そう願いつつも奈落に落とされるから「あり」なのであって、あらかじめ暗い結末が用意されていることを知りながら、そこに向かっていく本など少なくとも私は読みたいとは思わない。個人的には「嫌なもの読みたさ」などの情緒は持ち合わせてはいないし、ブームが高じて後味の悪さを競うようにならないことを願っている。

 この『贖罪』が果たしてどれほどの「イヤミス」なのかはわからないが、湊かなえのお得意の一人称独白形式で綴られた物語は確かに無残な方向へと流れていく。
 サイコキラーと思しき人物が少女を殺害し、その場に居合わせた四人の少女たちが被害者の母親から「娘を見捨てたあなたたちに償ってもらう」と。その一言でループのように悲劇が巡回していく。
 さすがに新たなジャンルの旗手ともてはやされるだけの筆力は感じる。この筆力の高さは実質デビュー作の『告白』でも実証済みとはいえる。

 しかし小説で『告白』『贖罪』を読み、映画で『往復書簡』『白ゆき姫殺人事件』を観て思うことは、そこまでこの一人称が入れ替わって語り形式にこだわる必要があるのかということだった。
 一人称の手法として手紙であったり、日記であったり、演説だあったりするのだが、だからといって客観描写を一切使わないことの弊害も見えてきたのではないだろうか。
 確かに告白者の心情を描くとき「直に吐露させる」ことでストレートに読者に伝わる。その迫力も認めるし、リズムも生まれる。これが書けることが湊かなえの大きな武器だとも思う。
 弊害は語り手があまりにキャラクターに反して饒舌すぎることと、語り手が入れ替わる際に多少の無理が生じるところが散見されることだろう。なによりも語りによって物語を展開させていくことで、どうしても繋ぎの文章がないためご都合主義に陥りやすい。
 さらに『贖罪』での独白の数々は「愛美(娘)は死にました。しかし事故ではありません。このクラスの生徒に殺されたのです」。という『告白』での衝撃を少しも超えていない。インパクトのある脈絡で綴っていく小説にはどうしても「さらに、さらに」が求められる。まして同じ形式を続けていけばどうしても比較される杞憂から逃れられるものではなかった。

 小説、映画化と湊かなえに触れてきて、そろそろ違うアプローチの小説が読みたくなっているのだが、それではこの作家の魅力が半減するということであれば、湊かなえもそれまでだと思うのだ。
 これだけ「書ける」人なので、「イヤミス」の女王などという称号に惑わされることなく、多彩な作品を世に送り出せるはずだろう。



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