◎警官の血

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◎警官の血 (上・下)
佐々木譲
新潮文庫


 下記の粗筋は新潮社のホームページに記載されていた解説に、私が加筆したもので、本文では「戦後闇市から現代まで、人々の息づかいと時代のうねりを甦らせて描く警察小説の傑作」と結ばれている。

 【昭和二十三年、上野署の巡査となった安城清二。管内で発生した男娼殺害事件と国鉄職員殺害事件に疑念を抱いた清二は、跨線橋から不審な転落死を遂げた。父と同じ道を志した息子民雄も、公安部より極左潜入捜査を命じられ、心に深い傷を負った末に凶弾に倒れ殉職。父と祖父をめぐる謎は、本庁遊軍刑事となった三代目和也に委ねられる・・・。】

 日本の戦後史を背景に三代続いた警官一家を描く大河小説であり、上下巻で刊行され、文庫版でも1000ページを超える大作は「清三」「民雄」「和也」の三章からなる。そして直木賞にノミネートされ、『このミステリーがすごい!』で年間ベストワンに輝くなど、申し分のない実績を残した。
 もともと『鉄騎兵、跳んだ!』がデビュー作だと知らなかった私は、佐々木譲の名を本作で初めて知ることとなり、“道警”シリーズから先に読み始めたのは『警官の血』への慣らし運転のつもりだったので、私にとって文庫化を待ちわびての読書だった。
 三章に区切られていることもあり、上下巻のボリュームはさほど感じなかった。むしろすんなり読み終えてしまったという印象が強い。それは今まで読んできた佐々木譲の警察小説の全般で同じことがいえる。一気に読ませるだけの面白さがあるともいえるし、主人公たちの心情に深く斬り込むことなくストーリーが進行してしまうので、それを追いかけるうちに一冊読み終えてしまうという呆気なさがあるともいえる。
 ただし直木賞を受賞した『廃墟に乞う』などを読むとこの作家の持ち味はやはり長編小説にあるのだと確信できる。受賞には選考委員による『警官の血』への評価も多分に含まれているのだということがよくわかった。断然、こちらの方が面白い。いや、ひと言で「面白い」とはいえないゴツゴツした作品だったというのが正確なところか。

 六十年にも及ぶ物語は、復員兵の安城清二が警視庁の大量採用で警察官になったところから始まる。まだ復興が遥かものに見えていた時代であり、「巣鴨拘置所では、東条英機以下、七人の戦犯の絞首刑が執行された」年のことだった。
 これは私の好みも手伝っているのかもしれないが、結果的にはこの「第一部・清二」の章が一番面白かった。当時の上野や谷中界隈の雰囲気がリアルに描かれていたし、首都の治安がまだ落ち着いていない中で、大量採用された警察官がたった二ヶ月の訓練で慌しく警察学校を卒業して現場に配属されるエピソードも楽しかった。また次第に国鉄労組などを筆頭とする左翼運動の機運が高まり、警官同士が居酒屋で酒を飲みながら交わす会話にも「正論はまずい。こういう時期だ。左翼だとみなされかねないぞ」と監視の目を気にするという時代描写も面白かった。
 清二に三人の同期採用の仲間ができる。私はこの仲間たちが物語を追うごとにどうなってしまうのかという興味も抱いていた。このあたりは浪人時代に夢中になって読んでいた尾崎士郎の『人生劇場』における群像大河ドラマの匂いを感じていたのかもしれない。それは恋する女房と谷中の駐在警官となって、ふたりの子供が生まれ、その子供たちを連れて日暮里駅の跨線橋から蒸気機関車が行き交うのを眺めながら、子供たちが清二の手を強く握り、清二も握り返すという、情景に気持ちがじわりとしみこんでくる描写にも『人生劇場』を想起させるものがあった。
 しかし駐在付近の火事の最中に起こった不可解な事件によって清二は呆気なく命を落とす。いやそれ以前に冒頭ページのプロローグで清二の死が暗示されているので、読者はそのことを想定すべきだとしても、あまりに突飛に物語は暗転する。
 こうして事件の謎が残ったまま突然と第一章が終わったことで、我々はこの小説は悠久な群像大河ドラマではなくミステリーとしての側面が強くなっていくことを知ることとなるのだが、それにしてもあのプロローグは本当に必要だったのかという疑問は未だに拭えていないのだがどうだろう。

 「第二部・民雄」は清二の七回忌法要の場面から始まる。安城民雄は父の同期三人の援助で高校に進学、さらに進路について警察官を志望していることを周囲に伝える。そのあたりの民雄の描写はしっかり者の優等生という雰囲気で描かれている。そんな民雄が警察官として採用されるのが昭和四十二年。高度成長の真っ只中で、時代は安保、全共闘、過激派が台頭していく時代へと移っていく。
 民雄は子供の頃に見た駐在警官としての父親の背中を見て警察官を志望した。そして父親が本当に殉職が認められないような死に方をしたのかという疑問を拭えず、父の名誉のためにも不可解な死亡事件を独自で調べようと試みる。そのあたりまでは父子鷹の物語としてひとつの線を感じさせる流れだった。
 ところが佐々木譲はその線を一旦ぶった切ってみせる。民雄は警視庁の公安部によって、警察学校から北海道大学に入学させ、左翼学生の監視にあたらせるという任務を命じられるのだ。実際に学生警官という身分が存在したものかどうかはわからないが、佐々木譲は「赤軍」という実名称そのままに民雄に武力訓練の現場に潜り込ませていく。
 この潜入捜査が第二部の大きな目玉となり、それはスパイ小説的なサスペンスでなかなか読ませるものがあるのだが、一連の潜入捜査によって民雄の精神はズタズタとなり、激しいPTSDに襲われ、この章の導入部で描かれたような民雄ではなくなってしまう。
 『警官の血』というタイトルで親子三代の警察官の物語というイメージから、朴訥でありながら骨太な物語を想像していたので、子供の前で妻に暴力をふるう主人公の姿は読んでいて辛いものがあった。
 そもそも学生警官からPTSDを乗り越えて駐在勤務に至るまでの描写が拙速すぎた感は拭えないし、駐在警官となってようやく父親の死について調べ出すのも、いきなり死に急ぐように凶弾の前に立ちはだかって殉職していくのも、どこか場当たり的な印象を与えるのではないだろうか。
 残念なのが、民雄が息子の和也に対し、警察官としての矜持を与えることができなかった、あるいはそういった描写が一切なかったこと。だから暴力をふるう父親を憎んでいたはずの和也が何を以って警察官を志望することとなったのか、その動機をどうしても読み取ることができなかった。そうなると警官としての「血」がそうさせたのかなどという運命論者的な解釈が頭をよぎってしまうが、そういう小説でもないような気がするのだ。

 その「第三部・和也」は殉職によって二階級特進した父親の葬儀の場面から始まる。結局『警官の血』では父が生きながら先輩警官として息子に心得をアドバイスする機会のないまま三代目の時代を迎えるわけだ。
 そして何の因果か、和也もまた事件捜査ではなく、一匹狼的なベテラン刑事の部下となって、上司の素行や暴力団との利益供与などの服務規程違反を調査するという任務が言い渡される。任命した刑務部の課長が和也にいう、「血だ。きみには、いい警官の血が流れている。こんなイレギュラーな任務に耐えられるだけのね」と。
 佐々木譲としては三章の中で駐在・潜入・監視というヤマを作って読者を引っ張ろうとしたのかもしれない。それはそれで誠実であるともいえるのだが、この和也の章で遂に祖父の代から謎とされていた事件の真相を突き止めるとなると、果たして四課のベテラン刑事の監視にあれほどのスペースが必要だったのかという疑問も湧いてしまう。
 そのように一気に読ませるものの、そういうゴツゴツした食感が最後までまつわりつくのが『警官の血』の特徴だといってもいい。
 やがて刑事として成長し、現場を仕切るまでとなった和也は監察官に言い放つ、「警官は、現場で覚えます。現場で学習します。より大きな犯罪と微罪と、被害者の出た犯罪と被害者のない違法行為と。何をどう秤にかけて、警官はどう対処すべきなのか。現場の警官は、日々そのことに直面し、瞬時に判断しているのです」。三代で最も警察官としての哲学と上昇志向を持ったのは和也だったのかもしれない。
 エピローグでは祖父の代から受け継がれたブリキ製のホイッスルを首から提げた和也が、颯爽と犯人逮捕の現場に臨む。惜しむらくはそれまでホイッスルにまったく物語が与えられていなかったことで、やや力づくで三代続いた戦後六十年の警官物語をまとめられたような気もしたが、このエピローグは嫌いではなかった。

 さて、こうして一気に上下巻1000ページを読破した。しかし私はもっと長く、もっと壮大にしてもよかったのではないかと思っている。
 ミステリー仕立てにしたことはどうだったのだろう。結果的にそれで直木賞は逃して、ミステリー雑誌でベストワンとなったのかもしれない。個人的には家族の物語として読みたかった。もちろん力作であったことは書くまでもないのだが。


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