◎聖女の救済
◎聖女の救済
東野圭吾
文春文庫
東野圭吾はこの[読書道]ではつかず離れずの関係にあるというか、気がつけばこの『聖女の救済』で11冊目となる。
人気ベストセラー作家であり、業界のトップランナーに対して11冊というのは大した読者とはいえないが、かつて東野圭吾にハズレなしという評価が『白銀ジャック』で思いっきり揺らいでしまったことで、『聖女の救済』はこの作家への試金石という位置付けになっていたような気がする。
【資産家の男が自宅で毒殺された。毒物混入方法は不明、男から一方的に離婚を切り出されていた妻には鉄壁のアリバイがあった。難航する捜査のさなか、草薙刑事が美貌の妻に魅かれていることを察した内海刑事は、独断で湯川学に協力を依頼する。ガリレオが導き出した結論は虚数解。驚くべき事件の真相とは?】
「ハズレなし」ということでは、『聖女の救済』は決してハズレてはいなかったことにまずはひと安心したい。しかし異常なテンションで最後まで緊張感のうちに読ませた『白夜行』や、知性の因数分解というか、悲しい人間ドラマとして完結した『容疑者Xの献身』と比べると明らかに薄口になっているのではないか。
『新参者』から以降、小説ではなく『麒麟の翼』 『真夏の方程式』と映像化された作品を劇場で観て、そこに明らかに原作の力を感じるものの、巧く辻褄を合せて上手にまとめたなということまで見えてしまう。要するに「ハズレなし」の枠内に収まってしまって、その枠から積極的に飛び出そうとしていないのではないかと思えるのだ。
そこで気になるのがドラマ化や映画化への原作者としてのアプローチがあまりにも迎合的すぎるのではないかということ。
もちろん流行作家である以上、多少のポピュリズムは許容されるにしても、本来、東野圭吾の小説にはもっと孤高なスマートさがあったような気がする。
例えば、読者に感情移入をさせない文体で、次々と予測を裏切っていくというプロットに特化した『ブルータスの心臓』。一転して「法の裁き」を読者に否定するほど主人公への過激な感情移入を要求する『さまよう刃』。冷徹に厳選されたピースを用いて、読者の「情動」そのものを操作した『容疑者Xの献身』が思い浮かぶのだが、それらと比べて『聖女の救済』は、内海薫なるテレビドラマから派生した人物をそのまま小説に取り込んでみたり、『探偵ガリレオ』の頃の湯川学と比べ、キャラクターそのものを福山雅治のイメージに近づけるなど、どうも手法があまりにも泥臭くなっている。まるで東野圭吾もいよいよ内田康夫の領域に入って来たのかと思うほどだった。
考えてみれば『聖女の救済』で用いられた犯罪トリックはたったひとつ。実にシンプルな手法で事件が完全犯罪の成立かと導いていくあたりは東野圭吾の真骨頂かとも思えるのだが、物語の大筋は草薙刑事が美貌の容疑者・真柴綾音に恋をしてしまうというエピソードで引っ張っていく。
確かに刑事とて人間だ。まして独身の草薙にとって美貌の未亡人に魅惑されることもあるだろう。そこで刑事として彼女を追及する立場と、真犯人であってはならないとする個人の感情で苦悩する草薙の様を切なく読ませなければならないのだが、どうも舌打ちしたくなるほど草薙が阿呆に思えてならない。
そもそも初対面で声がかすれるほど動揺し、目が釘づけとなり、「なぜ自分の心がこれほどまでに揺さぶられるのか、自分でもわからなかった」と説明するのはあまりにも安直。東野圭吾ともあろう作家ならば、草薙が綾音とりとりする過程で次第に恋に落ちていく「揺らぎ」を描けただろうにと思う。
うーん、試金石として『聖女の救済』の評価は微妙だった。テレビ視聴者に媚びるのではなく、妙な楽屋落ちを入れ込むのではなく、願わくは東野圭吾にはかつての孤高のイメージを取り戻してほしいのだが。
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