◎終末のフール

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◎終末のフール
伊坂幸太郎
集英社文庫


 フィクションを読むということは、小説家が構築した世界観の中で人物たちが動かしていく物語を読むということだ。読者は小説の中に起こる事件を知り、それが恋愛なのか、憎悪なのか、心理の迷宮なのか、直面した人物たちがどんな行動をし、どんな情動を受け、その詳細を確かめながらページをめくっていく。今まで経験した読書とはそういうものだった。
 ところが伊坂幸太郎『終末のフール』は少し違った。読者は常に「自分ならばどうするのか」という仮定を想像しながら物語と伴走していかなければならない。

 【2×××年。「8年後に小惑星が落ちてきて地球が滅亡する」と発表されて5年後。犯罪がはびこり、秩序は崩壊した混乱の中、仙台市北部の団地に住む人々は、いかにそれぞれの人生を送るのか?】

 伊坂は「ジムの中を舞っていた埃がすっと沈んで、空気が塩をまぶされたように引き締まるのが分かる」などと印象的な言い回しを駆使し、仙台市内の団地を舞台に、老若男女さまざま、3年後に命が消える人々の物語を八編のエピソードで綴り、それぞれのケースで物語を編んでいく。

 では「自分ならばどうするのか」という仮定を考えてみる。
 私は何となくだが、無秩序と混乱の段階は生き残れそうな気はする。ものすごい厭世感には襲われるのは間違いないだろうが、それでも死は怖いし、そうかといって剥き出しのまま生を欲求するほど戦闘的にもなれない。無為に過ごす一日を後悔しながら、その瞬間は家屋に押しつぶされるのか、津波にのまれるのか、苦しむのか苦しまないのかとあれこれ想像を思い巡らしながら翌日も無為にやり過ごし、いよいよの瞬間でバタバタする。そんなところではないだろうか。
 それでも目の前に安楽死出来るという錠剤があったとしても、自ら死を選ぶことはないのではないか。3年後に人類の叡智で小惑星との衝突は避けられる、あるいは計測に誤りがあり、落下の進路がずれて助かることを儚く期待するのかも知れない。そうして「生きてさえいれば」という根拠のない希望を絵に描いて日々を費やしていくのだと思う。
 しかし、それぞれ主人公となった人々は、混乱の中で両親が殺され、自殺するなど地獄を目の当たりにしてきた記憶が生々しく、すでにこの世の終わりを実感しているわけだから、希望を絵に描く段階はすでに終わっているのだろう。
 結局、想像は出来てもその通りになるのかという自信はない。想像である以上はそういうことでしかないのだが、伊坂幸太郎とて想像しながら物語を編んでいるわけで、我々は想像だけをするのだが、作家は想像を創造にしていかなければならない。そこにフィクションを創る者の苦悩と醍醐味があるのかもしれない。

 表題作の『終末のフール』では、息子を自殺で亡くした父親が、喧嘩別れした娘との再会を果たす。地球滅亡を3年後に控えての家族再生の物語だが、絶望という前提を横に置きながら父娘の和解という普遍的な物語を成立させてしまうのが面白い。
 『太陽のシール』は、優柔不断で決断力に欠けると自覚する男が、妻の妊娠を知り、出産するか否かの選択に迫られるという物語。3年後に終わるとわかっている命の授かりを享受すべきかどうかというのは確かに重い選択だが、一方に生涯介護を必要とする息子を持つ同級生が、自分たちが居なくなったらこの子はどうなるのだという苦悩から救われたのだと語る場面がある。人類滅亡という状況は様々な命の物語を生み出すもののようだ。
 『籠城のビール』は、世界滅亡の前に恨みを晴らすべくマンションに籠城する兄弟の話。しかし小惑星ではなく、自分たちの手で殺さなければならないと思い込んでいた相手が一家心中をはかろうとしたことを知り、「生きて苦しめ」という境地に達する。ここには本当の贖罪とは何かという命題がある。
 『冬眠のガール』の娘の親は騒乱の中で自殺した。しかし彼女は「お父さんとお母さんを恨まない」「お父さんの本を全部読む」「死なない」という三つの誓いを立て、残された3年間で自分探しのため新たな目標を見つけていく。残された時間をどう生きるのかという状況に育まれるものもある。
 「残された時間をどう生きるのか」というのはこの小説の根源的なテーマだ。絶望的な状況の中で絶望しない人々がいる。
 『鋼鉄のウール』のキックボクサーはストイックにひたすら己の肉体を鍛え上げ、『天体のヨール』の天体オタクは小惑星衝突の瞬間を見逃すまいと、その日をワクワクと待つ。しかし一方で愛する妻を殺され、その喪失感の中で残りの3年を生きることに意味が見出せずに死を選ぼうとする男もいる。逞しく生きることの素晴らしさを手放しで賞賛するのは容易いが、どうせ不条理に死ぬなら、自らの意志で死ぬ権利だってあるのではないか。最早、何物にも侵されない領域は「自由」でしかないのかもしれない。
 『演劇のオール』は、芝居に挫折して帰郷した娘が様々な役割を演じて人々と接していく娘が描かれている。残された時間が少ないのなら、いっそ幾多のキャラクターの人物を一気に生きてみるのも手なのかもしれない。そうすればこのエピソードのように小さな奇跡が起こることもあるのだろう。
 最終話の『深海のポール』では、最後の瞬間を見届けるため団地の屋上に櫓を建てる父親と、その息子の触れ合いが描かれる。その櫓の上から街を眺めたとき、見えてきたものは不器用ながら一生懸命に生き、一生懸命に死のうとしている人々の姿だった。

 さすがに伊坂幸太郎は私のつまらない想像など微塵に砕くような最高のフィクションを創出していくが、こういう設定の中で物語や人物の心情がリアルであるのかどうかはわからない。しかし破滅へと刻一刻と時計が進む中で、残りの生を謳歌しようと振舞おうとする登場人物たちにも空虚と恐怖は容赦なく襲い掛かり、深刻なストレスで胃はボロボロとなって時折、嘔吐をしてしまうあたりの描写は怖い。
 しかし何度も書くが、これもまた伊坂の想像でしかない。でも面白かった。


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