◎猫鳴り
◎猫鳴り
沼田まほかる
双葉文庫
なんとも凄い小説だったと思う。いや、そんなに凄い内容ではないのだろうが、これを読んで何ヶ月も経っているにも関わらずなかなか感想が書けなかった。何よりもこの小説で感想など書けるものかと苦笑いしながら、たまにページを開いてはこの小説のとてつもなさを考えていた。
【流産した哀しみの中にいる夫婦が捨て猫を飼い始める。モンと名付けられた猫は、夫婦や思春期の闇にあがく少年の心に、不思議な存在感で寄り添ってゆく。まるで、すべてを見透かしているかのように。そして20年の歳月が過ぎ、モンは最期の日々を迎えた・・・・。】
中学のときにダックスフントを飼っていた。随分と不遇な思いをさせてしまったことをずっと後悔している。
目の前で倒れられ、病院に預けて引き取りに行ったら、獣医に「亡くなられました」といわれて呆気にとられていると、ペットを供養する寺院のパンフレットを渡された。その時のことは忘れられるものではない。
だからというわけではないが、今度、もしペットを飼うとしたら断然猫がいいと思っている。今まで人生で三度ほど猫にウルっとさせられた。そのときに猫好きの気持ちを瞬時に理解出来た。犬の献身より猫の自由の方が性に合っているような気がする。
この『猫鳴り』が万人の猫好きウルっとさせる小説ではなく、まして愛猫と寄り添う人々のほのぼのとした物語というわけではない。
作者は沼田まほかる。たった2冊の読書体験しかないが、『九月が永遠に続けば』で陰湿で倒錯した愛憎を描いて私の反発心を煽りつつも、『ユリゴコロ』では無感情に人を殺していく殺人者を描いて、私をひと晩夢中にさせた。
その筆致はダークでグロテスクであるため、最初からハートウォーミングな物語を予測していたわけではなかったが、『猫鳴り』は決してダークでグロテスクばかりの小説ではない。
なんというか、動物を含む人間の精神の闇と病巣を前提としながら、それがあまりにも根源的なものであるゆえに狂おしくも訪れる諦観を描くものとでもいうのだろうか。
うーん、我ながら抽象的な感想になってしまうが、それほど沼田まほかるの筆致は重く鋭く、とてつもなく痛い。そして凄まじいことに何やら人生讃歌のような後味すら残しているだ。
ストーリーは三部から成る。第一部は子を流してしまった女の複雑でやるせない心情を、捨て猫に託して描写され、のっけからその筆致には圧倒させられる。
信枝は何度も仔猫を捨てようとする。捨てるという行為で、却って仔猫を観察することになり、40にして赤ん坊を流してしまった自分の虚無的な心情と向き合うことになる。最初はカラスにすぐ見つかるようと畑の真ん中に仔猫を捨てる。
それでも仔猫は傷を負いながら戻ってきて庭先で鳴く。信枝は傷を手当てをしてエサまで与えるのだが、もっと遠くに捨ててこようかと考え、夫の藤治に「車で捨ててきて」という。藤治は「いっそのこと、うちで飼ってやったらどうだ」というものの信枝は「生き物は好きじゃないから」と返す。それは同時に赤ん坊だって生き物だったという思いが二人の間を駆け巡る。淡々とストーリーを展開させながら、人物たちの心情を重く漂わせていく、この筆致だ。
仔猫を拾って飼うことで流した子供の代償にするのではなく、今度こそ自分の意志で命を葬り去るのだという暗い愉悦。いや、このことも代償行為ではあるのだろうが。
ガラリと作風を変えた第二部は、小動物に突然憎しみを抱いてしまった少年が登場する。困ったことにこの行雄に共感している自分を見てしまい、個人的にもヒリヒリするような気分で文章を追う。
実は私も弱々しいだけで何かにすがっている小さな生き物への破壊的な衝動を心の内に隠し持っている。電車の中で泣く他人の子に対する不快感。あれは単に喧しい以外の何かがあるように思う。ペットショップでキャンキャン鳴いて檻の中で暴れている犬に対し、首を思いっきり捻っている想像をすることもある。そのあたりは私自身の闇なのだろうが、逆にそういう存在がたまらなく愛おしいと思える瞬間もあって、その揺らぎの中で、自分なりに折り合いをつけて生きているのだという自覚もある。
おそらく弱い自分よりもさらに弱い存在を標的にしようとする自身の情けなさを無意識のうちに否定したいと思っているのだろうが、驚くべきことはこのことをひと回り上の女流作家に看破されていることだ。
幸い、私は神戸幼児殺害事件の犯人である少年には共感はしないし、行雄のように公園で見つけた幼児をナイフでめった刺しにする想像で勃起することもないだろう。ただ、砂場で死んだカマキリに攻撃する幼児に「ニヤニヤ笑いを浮かべた漫画みたいな顔の裏に、優越感や、自己満足や、意地悪さや、サディスティックな快感が透けて見える」と思った行雄にはまったく共鳴していた。
もちろん共鳴しつつ、優越感も自己満足も意地悪さも結局は自身のことなのだということも沼田まほかるに見抜かれていることは百も承知しているのだが。
ある意味でブラックホールの件りはまったく理解できなかったのはむしろ喜ばしいことなのかもしれない。その件りだけは父親の立場で行雄の話を聞いていたからだ。
そして「厳粛な儀式の記述」ともいうべき第三部へと物語が入っていく。正直言ってこの藤治とモンの二人だけの世界はどうにも感想が書けない。せいぜい冒頭の数行を繰り返すのみか。
そう、それまでもこの小説に漂っていた「死」というものが、目前に繰り広げられている。描写というよりも観察に近いのか。その中で猫を通してしっかりと人生の矜持を残す。まったく沼田まほかる恐るべしだ。
どこかのレヴューに「芥川賞にも直木賞にもどちらにも匹敵する」とあったが、同感だ。もっとも『猫鳴り』はどちらの候補になったわけではないが・・・。
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