◎新参者
◎新参者
東野圭吾
講談社
昨年度の「このミス」で東野圭吾の『新参者』が1位を獲ったと知ったときには、「また東野圭吾かいな」と思った。
とにかく私はいつも東野圭吾の本を手にすると、その作劇法に舌を巻いてきたし、このページでも再三、そのことばかりを書き綴ってきたように思う。そしてここにまた東野の趣向に触れて、ほとほと感心しながら新刊本を二日とかからずに読み終えてしまった。いつものように計算づくのプロットにやられてしまったということだろう。
こんな風に、思いついたプロットを最上級のレベルで組み立てていけるのだから、東野圭吾の作家人生は楽しくて仕方ないのではないか。
【日本橋の小伝馬町で発見された四十代女性の絞殺死体。「なぜ、あんなにいい人が」と周囲は声を重ねる。着任したばかりの刑事・加賀恭一郎は、事件を追って未知の土地を歩き回る…。】
舞台は日本橋。人形町や小伝馬町の界隈だ。日本橋署に転勤してきたばかりの加賀恭一郎は人に尋ねられると「この町で、私は新参者ですから」と答える。以前は私も仕事で何度かこの界隈を歩いたものだったが、確かにこの辺りは独特の風情がある。江戸情緒といっても半ば観光地化された下町エリアと違い、ここには立ち寄った者に「新参者ですから」と謙遜させてしまう空気がある。
先祖代々からの老舗の店があり、それぞれがプライドを持って商売を営んでいるのは、やはり天下の日本橋だという気概があるのかもしれない。この小説のエピソードに出てくる料亭の女将や時計屋の主人、民芸品屋の女主人などが典型だろう。個人商店の町でありながらも江戸時代からの日本の中心であり、路地を抜けると兜町の証券取引所があって、日銀の本店があり、多くの銀行、証券会社が軒を並べる日本の経済特区であるという雰囲気がある。
大阪出身の東野が小説の舞台に日本橋を選んだのは、自ら「新参者」として加賀恭一郎と共感するには格好の舞台となると踏んだに違いない。
加賀が人形町の喫茶店から往来するサラリーマンを眺めていると、人形町から浜町に向う人たちは上着を脱いでいるのに、逆方向の人たちは上着を着ている。こういう着眼点は、余所者の視点があってこそ生まれるものではないかと思うのだ。
東野圭吾はこの町を舞台に、煎餅屋、料亭、瀬戸物屋といった商店街の人々を中心に9編の物語を展開し、それぞれのエピソードに主人公を設定している。
いかにも雑誌に連載されていたらしく基本は一話完結形式となっており、小さな事件が起こっては加賀が解決していくという構成になっている。なんの予備知識もなかったので、おかけで第一章の『煎餅屋の娘』を読み終わったときに、長編だと思っていたのに短編集なのかよとちょっと面食らってしまった。
何てことはない、小伝馬町で起こった中年女性の絞殺という大きな事件が全編を通して存在し、捜査を担当した加賀がその女性が殺されるまでの足跡を辿っていくうちに、聞き込みで様々な人たちと出会い、小さな謎や捜査上の不明瞭な部分を穴埋めしていくという長編内の連作ものだった。
小さな事件といっても嫁姑問題であったり、父子の確執であったりという事件ともいえない喜怒哀楽に触れる出来事が捜査によって炙りだされ、それが人と人との情であったり、ちょっとした意思の齟齬であったりで、それらが相互循環しながら弘兼憲史の『人間交差点』に出てきそうな「いい話」として綴られていく。このあたりは多少のあざとさを感じさせつつ、困ったことにときして琴線を刺激してくるのだ。
事件の被害者である女性もこの町では新参者だった。最初は小伝馬町のマンションの一室で絞殺死体として投げ出されるように登場した彼女も加賀の捜査と人々の証言や印象で「生」が吹き込まれていく。その過程が快適にページを進ませていく要因だったともいえる。
そして東野圭吾のことだから当然にして、それらの小さなエピソードの積み重ねが小伝馬町女性絞殺事件へのプロットとなっていく。そうでなければミステリー大賞など獲れるわけがない。だから読み始めの頃は一日でひとつのエピソードを消化していけばいいのかなと思っていたが、それが根本の事件に関わっていくともなれば、それほどのん気な読書も出来ないのではないかと焦り始めてしまい、結局二日もかからずに読み終えてしまった。
何せ『探偵ガリレオ』と『白夜行』が脳内に同居する作家だ。人情も非人情も指先ひとつで方向を簡単に操作してしまうのだろう。
加賀恭一郎ものは初めて読んだので、他の作品についてはよくわからないが、彼の刑事像が闇雲に事件にのめり込んでいくキャラクターではなく、物事を俯瞰で捉えて、冷静にフォーカスを絞っていくタイプであることも、この小説にはよかったのではないか。彼は下町人情ものという一面を持つこの小説で、あまり深く土着に根ざしていないという匙加減も功を奏したといえるのではないかと思う。
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