◎小暮写眞館

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◎小暮写眞館
宮部みゆき
講談社


 実はこの長編小説、6月中に一度完読していた。そしてひと月後にまた読み返していた。

 このページの【読書道】なんてネーミングはまったくの洒落で、私の読書の何処を探しても「道」などはないのだが、ひとつだけ自分なりに正解だったと思うことがある。それは最初から星印などの採点をつけないで進んだこと。『小暮写眞館』を再読して、つくづく思った。

 【高校生・花菱英一の両親は、昔写真館だった中古住宅を購入する。「小暮写眞館」という写真屋の外観をそのままに家族は新たな暮らしを始めた。だが、その家にはかつての主人・小暮さんの幽霊が出るという噂が…。】

 店頭に並んだばかりのほやほやの書き下ろし新刊。普段は中古本や図書館など安い読書に明け暮れているのが、珍しく七百ページを超えるぶ厚い新刊本を購入したのは、装丁を見た瞬間に何故か「これは買わなければ」と閃いてしまったからだ。
 自分でいうのもなんだが、そういうときの閃きは絶対に外さない。実際、本を開いている間はほわんとした幸福の中にいた。そして、このほわんとした幸福感を点数で表わす野暮をせずに済んだことが何よりも幸福なのだと思った。
 ただ断っておくが、閃くまま1950円を惜しまず、ページを開いた瞬間からめくるめく幸福感が洪水のように押し寄せてきたわけではなかった。むしろ本編の「第一話」を読み終えた序盤はまだ浅い途惑いの中にいたように思う。
 宮部みゆきは『火車』『理由』『模倣犯』のように滑り出しからスロットル全開に疾走したわけではなく、ここでは、手綱を緩めながらゆっくりと物語を紡いでいく手法を試したのだろう。まるで主人公の花菱英一、完全無欠の親友のテンコ、ガールフレンドの甘味処・てらうちの一人娘コゲパン、須藤不動産屋の人たち、そして父・秀一、母・京子。“コドモ人生常勝将軍”弟・ピカ。これらの人物たちが作者の手を離れて一人歩きをしはじめるまで、じっくりと熟成を待っていたかのようでもある。

 当然、読者の中でも彼らが熟成していくのを待つ時間は必要で、だからこその七百ページのボリュームではなかったのかと思う。 「第一話」を読み終えた限りでは、ちょっと待てよ…元写真館に住むことになった少年のもとに持ち込まれてくる心霊写真を捜査するエピソードを集めたオムニバス集なのかよ、、、という不安がもたげていたりもしていた。私はそういうオカルトや超自然現象系テーマはどちらかといえば苦手なのだ。
 いや、この『小暮写眞館』はまさにそういうエピソード集であることには違いない。しかし、いつしか不安は消えて、逆に前のめりになっていく。私は小説世界にはまると、せっかちに先へ先へと進んでしまう性質なのだが、この本に限っては半分を読み終えた辺りから、残りページがみるみる消化されていくのがなんとも残念に思えて仕方がなかった。そしてその「残念」がとうとう間を置かずに再読に踏み切らせたのではないかと思う。

 宮部みゆきのことだから、牧歌的なエピソードを積み重ねていきながら、終盤に怒涛の急展開を見せるのではないかという仄かな予感もあった。『模倣犯』があれだけの長編でありながら読者の集中力を最大限に引き出し、最後の最後でテーマの意味をぶん投げて驚愕させたイメージが忘れられないからだ。
 しかし読み進めていくうちに、この物語にはそんなトリッキーな技は必要ではないのだと思いはじめていた。それどころか、極端なエンディングは勘弁してくれとも思うようになっていた。本を読み進めながら私がそんなことを考えたのは初めてだといってもいい。
 『小暮写眞館』は才能溢れるミステリー作家がミステリアスなエピソードを解決するべく捜査や聞き込みを描きながらも、これはミステリー小説にはならなかった。ジャンルとしては青春小説であり、主人公・花菱英一の成長物語だった。

 もっとも私は宮部みゆきの著作のほんのひと握りしか読んでいない。多くの読者に読まれたベストセラーを摘んでいるに過ぎない。にもかかわらず宮部みゆきを読み込んでいるような気になっているのは、その一作一作にとてつもなく夢中にさせられた時間が鮮烈な印象として残っているからだろう。
 宮部みゆきの小説にはもう一方の“現代ミステリーの女王”である高村薫のような重厚感はない。しかしストーリーテラーとしてのフットワークのよさがあり、行間に読者をほっとされる安心感を漂わせるのが持ち味だ。その行間に漂う安心感が一気を開花させたのが『小暮写眞館』ではないだろうか。
 そうなると大したハプニングが起こるわけでもない仲良しグループで出掛ける上野動物園や、意地とプライドがぶつかり合う(?)駅伝のレースなども読んでいて楽しくなってしまう。間違っても高村薫にこの芸当は真似できないだろうし、それを要求する者もいないだろう。

 宮部みゆきは確か私と同学年だったか。この小説は高校生の男子を主人公とした小説ではあるのだが、リアルに今どきの高校生を描き切ったものではなく、花菱英一と同世代の高校生が読んだとしたら多少の違和感を覚えてしまうのかもしれない。しかし五十路を迎えた作家が架空の三雲高校という舞台を設えて、作家の中で理想とする瑞々しい高校生ライフを創作することに一切躊躇わなかったのがよかったのではないか。
 男子高校生ならばテンコのようなエキセントリックな友人に恵まれたいと思うだろうし、コゲパンのような気丈なガールフレンドも、ピカのような可愛くて感性豊かな弟も持ちたいと思うに違いない。そして何よりも「あんた」と呼べるような年上の女に対して、彼女の大人の部分を背伸びして覗くことにも憧れを抱くだろう。

 上で書いたように、この小説の骨子は主人公・花菱英一の成長物語だ。しかし正確に書くと過去の子供だった自分からの脱出の物語でもある。そしてその脱出を死者も含む周囲の人々が暖かくアシストしていく。「幸せ」という言葉は日常語なのだと思えるほどに、多少、ぬるくてもその温かみが胸に沁みてくる。
 そして、ほろ苦い思いをしても、「バッカみたい」が口癖の垣本順子を自立させたことはひとつの「自分からの脱出」の証しだといってもいい。

 その垣本順子と英一とのJR大船駅での件りは、川辺のベンチで英一がピカと奇跡的な光景を目にする幻想的なエピソードと並ぶ珠玉の名場面だったのではないか。
 その「駅」がこの小説では重要なモチーフとなり、「駅」が出てくる場面のすべてが印象に残る。
 「電車は人間を乗せるものだ。鉄道は、人間と人間を繋ぐものだ」と語る“鉄ちゃん”のヒロシは、「しかし駅だけは乗せることが出来ない」と語る。その言葉を受けてエンディングの感動的なモノローグで幕が閉じていく。

 何年か経てばおそらく『小暮写眞館』は上下巻で文庫化されるだろう。そのときには必ず読み返してみたいものだと思っている。


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