◎図書館内乱
◎図書館内乱
--- 図書館戦争シリーズ②
有川 浩
角川文庫
あらゆるシリーズものがそうなのだろうが、第二弾ともなれば、こちらも状況はわかっているし、キャラクター各々の個性も馴染んでくる。私もさすがに前作『図書館戦争』の突拍子もない設定に乗れるまでに少なくないページ数を要してしまったが、『図書館内乱』ではその必要がなく、オープニングからヨーイドンで作品のテンションを合わせることが出来た。
ひとつの場面の中で主観となる人物があっという間に入れ替わる有川浩の語り口も掴めてきたし、油断していると仕手と受け手がいつの間にか逆転して心情描写の応酬となるのも、台詞や行動に対するリアクションが大袈裟なことへの違和感もどうやら克服しつつある気がする。
【相も変わらず図書館は四方八方敵だらけ!ヒロインの両親襲来かと思いきや小さな恋のメロディを叩き潰さんとする無粋な良化「査問」委員会。迎え撃つ図書館側にも不穏な動きがありやなしや!? 図書館の明日はどっちだ!】
まあ笠原郁が両親に戦闘職所属であることがバレないように図書特殊部隊が必死にアシストするドタバタなど必要なのか?とは思ったものの、それはシリーズ第三弾の『図書館危機』の茨城県展での戦闘への伏線になっているのでご愛嬌といったところか。
・・・要するに私は感想文をそっちのけにしてシリーズを最後の『別冊 図書館戦争Ⅱ』まで読みきってしまっているのだ。
このシリーズを俯瞰すると、シリーズ第一弾はその設定の特殊さゆえに、世界観の解説にスペースを割くものだった。そして第二弾、三弾は図書館隊とメディア良化委員会の闘いを縦糸としたエピソード集という体裁を持っている。そのエピソードのひとつひとつは硬い話、柔らかい話とバラエティに富んでいるが基本的には無駄な話はひとつもなかった。これは大したものだと思う。
さてこのシリーズの通奏低音には「表現の自由」と「言論の規制」の問題があげられる。
「表現の自由」とは憲法に保障された民主国家としての根幹ではあるのだが、時として国家権力は検閲の名を借りてそれを蹂躙しようとする。
実はそのことに関して、私は幸か不幸かそれらとの関わりから逃れられない立場となってしまい、それに言及するのは出来れば二の足を踏みたい事情があるのだが、例えば未就学児童が直接の被害者となる「児童ポルノ禁止法」については全面的に支持するものの、そこに便乗したような「東京都青少年健全育成条例」など、明らかにお上による検閲の範囲が恣意的に広げられている現実があり、このシリーズでの「メディア良化法」は有川浩の創作ではあっても、その対抗として「図書館法」があるのだから、国家としてのバランスが保たれている分だけ小説の方がマシであるのではないかとも思ってしまうのだ。
『図書館内乱』では図書特殊部隊の小牧がいわれなき罪で良化隊に連行されていく場面が描かれている。小牧の罪状は耳の不自由な恋人・中澤毬江に、ヒロインが難聴者である小説を薦めたことが、未成年障害者への人権侵害にあたるということだ。
これは「中澤さん耳が悪いのに、難聴のヒロインの本を勧めるなんてちょっと無神経じゃない?」という毬江のクラスメイトたちの噂が発端となっているのだが、戦前の治安維持法を例にするまでもなく、取り締まる側は時として無理なこじつけで権力をふるうもの。そんな理不尽な力を描きながらも、有川浩が同性に放つシニカルな視点も見逃すことは出来ない。
「嫌いなのよね、あの年頃の純粋さを盾に取った正義感って、自分の価値観だけで世の中全部量れると思ってるあの無意識な傲慢さとか、悪気なく上から被せてくる押しつけがましい同情とか」と柴崎麻子にいわせたこの台詞はまず男の作家には書けない。
『阪急電車』で小学校低学年の少女たちを「こんな年でも少女たちはもう女だった。卑しく、優柔不断で、また誇り高い。あんな幼い、小さなコミュニティの中に、既に様々な女がいた」と表現して私を大いに唸らせたフレーズに通じるものがある。これを「ナナメ上に突っ走った正義感」と一刀両断してみせる鮮やかさは男が読んでもなかなか爽快ではあった。
しかしこの小牧連行事件などは明らかに良化委員会側の勇み足であったのだが、検閲の対象が少年犯罪の犯人である少年の顔写真に供述調書を添付した雑誌となるとどうだろう。顔写真も調書の漏洩も法律違反であり、いくら表現の自由、報道の自由といっても個人のプライバシーに土足で踏み込んでいいものかという問いかけだ。
これは実際に17歳の少年事件で過去に同じことが起こった。当時、週刊誌は「報道の自由」の美名を盾に取って、読者の知る権利を提供する義務を主張したものの、しかしその実体は売らんがための営利目的に過ぎないことは明白だった。
正直、私にしてからが今度の東日本大震災における原発事故で、無責任に世の中の不安を一方的に煽るような報道を目にすると、「こんな記事は潰してしまえ」という思うこともある。そういう思いが権力に利用される恐ろしさというものはあるのだろう。
報道の暴走が今日の検閲する側の権利を肥大させた原因であることを有川浩はきちんと言及している。それは非常にフェアなことではないかと思った。
a:2004 t:1 y:0