◎四畳半神話体系

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◎四畳半神話体系
森見登美彦
新潮文庫

 【私は冴えない大学3回生。薔薇色のキャンパスライフを想像していたのに、現実はほど遠い。悪友の小津には振り回され、謎の自由人・樋口師匠には無理な要求をされ、孤高の乙女・明石さんとは、なかなかお近づきになれない。いっそのこと、ぴかぴかの1回生に戻って大学生活をやり直したい!】

 面白い小説だとは思った。しかし読み始めた途端にその世界観に一気に絡み獲られた『夜は短し歩けよ乙女』や『太陽の塔』に比べると正直、私の読書のテンションが上がるまでには至らなかったことを告白しなければならない。やや森見登美彦へのハードルを上げすぎていたか。
 森見登美彦は他の追随を許さぬ文体で京都を描きながら、古都のイマジネーションをそのまま投げ出すことで読者を迷宮の深淵にはめてきた。しかし、迷宮を迷宮として描くと案外迷走してしまうことがわかった。迷宮と迷走とではエライ違いではある。
 まるで街がひとつの生き物のようにキャラ立ちしていた森見小説の京都が、今回は思った以上に浮かび上がってこないのは、もしかすると背景が京都ではなく、四畳半だったからかもしれない。

 松本零士が70年代に『元祖大四畳半大物語』や『男おいどん』で四畳半を描いた時代の切実感そのままに森見登美彦はこれを平成の世に現出させることを試みた。
 もちろん四畳半の間取りの狭さが、貧しさの単位として歌われたフォークソング的なノスタルジーも加味されているかとも思うが、森見登美彦が四畳半で大海を描き、宇宙を語ったのであれば、『四畳半神話体系』という大仰なタイトルのなにが「神話」で、どこかが「体系」であるかの答えは小説を読めば一目瞭然でも、どこかに松本零士の世界観へのオマージュが見え隠れしていたと思うのだがどうだろう。

 しかし、実際「四畳半」に象徴される切実感など、その住人として語られる主人公が若者であり、学生である以上、所詮は貧乏の仮想体験をする空間にすぎない。
 押し入れのサルマタに生えるキノコを食うという戯画化された極貧はともかく、そこは四畳半に一家4人とか、老人がひとり住むなどの少なからぬ現実とは無縁の青春小説ならば、主人公の多くはその気になればいつでも帰れる故郷を持ち、またその気になれば一流大学を卒業して一流企業に就職できる若さと時間的な猶予もある。
 だから色恋沙汰も含めてそれなりに日常を面白おかしく謳歌しているただのモラトリアムであるからこそ、四畳半=ノスタルジーという定式が成り立っているともいえるのだ。
 もちろんこの『四畳半神話体系』の「私」が四畳半で貧乏と燻りの仮想体験を強いられる最中のもがきは、本人にとって相当深刻なはずで、それを面白おかしく描きながら、主人公の野望が「薔薇色のキャンパスライフ」に収斂されていようがいまいが、読者とともに出口を模索していくこと自体は自由だ。

 小説は第四話からなる。しかし大半は同じ人物たちによる同じ話に終始する。物語どころか設定も台詞も殆ど同じで、驚くべきことにどうも原稿をコピー、ペーストしていることが窺われる。最終話で個々のエピソードが並列に進行していることがわかるが、そうなるとある種の実験小説の色合いを呈して来て、これはこれで試みとしてはアリだと認めながらもどうしても文章を飛ばし読みしてしまう。ある種「寿限無」的な面白さは話芸ならばこそ笑えるのであって、文字で読むとどうしても飽きてしまうのだ。

 発刊された時系列と私の読書の順序が前後しているので何ともいえないが、謎めいた「樋口さん」や「羽貫さん」さんという『夜は短し歩けよ乙女』を彩った面々の登場など、これは『夜は短し~』で完成した絢爛たる世界観を創り上げるための助走として、迷宮にもがく主人公の姿を描く必然があったのだと結論付けておこうかと思う。


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