◎吾輩は猫である
◎吾輩は猫である
夏目漱石
角川文庫
昨年中に読破してやると意気込みつつ、結局、ふた月近くかかってしまった。
いや、中学生の時以来、何度もこの作品に取り掛かってはそのつど挫折。この文庫本にしても購入して十年以上も本棚の肥やしとなっていたのだから、世に知れた締めの一行「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい」に辿り着くまで35年の歳月を費やし、ようやく成就したいうことになる。
【「吾輩は猫である。名前はまだ無い。」苦沙弥先生に飼われる一匹の猫の目を通し、猫を語り手として太平の逸民たちに、滑稽と諷刺を存分に演じさせ語らせていく。】
何故、中学生以来なのかといえば、あの当時、部活の帰り道をともにしていたI君という文学少年がいて、彼が漱石の『猫』を何度も愛読し、読むたびにクスっと笑ってしまうようなことをいっていたので、そんなに面白いのなら自分も読んでみるかというのが初端の動機だった。
あれから幾星霜、月日が経つにつれ、中学生が何度も笑いながら読んでいた小説を、何故に自分はあえなく挫折しまうのか。あまりの情けなさに、『猫』にある種の劣等感を抱くまでになってしまっていた。たかが一冊の本に対する小さな思いではあっても、人生には、この程度に決着がつけられずに引っ掛かっているものが必ずあるのものだ。
因みに私の中にはI君にまつわる本が何冊かあり、それはウィルキー・コリンズの『月長石』であったり、エラリー・クイーンやシェイクスピアの諸作でもあったりするのだが、これらは「I君シリーズ」として、何れは落とし前をつけなければならないと思っている。
「人の説く法のうち、他の弁ずる道のうち、ないしは五車にあまる蠧紙堆裏に自己が存在するゆえんがない」などという文面を追いかけながら、たまにI君の顔をちらつかせ「中学生にこの意味がわかっていたのか?」と案じながらも、とにもかくにも私は夏目漱石『吾輩は猫である』を読み終えた。
百年以上昔の明治の文学ゆえに難読難解の箇所が散見されるのは仕方のないことで、完読出来た満足感もあるのだろうが、面白かったか面白くなかったかと単純に分ければ、大変面白かったと思う。そもそも注釈をめくりながらの読書という不自由さゆえに一気に読了というわけにはいかなかったが、この漱石の処女作は今ならばお手軽なエッセイ本の類に近いのではないか。案外不思議なもので、そうなると挫折し続けてきた幾星霜がむしろ滑稽に思えてくる。
確かに物語本として起承転結があるでもなく、ヤマ場もあるでもなく、矢継ぎ早に繰り出されるエピソードにことごとくオチをつけずに進行していく手法は読み手の了解が不可欠ではあると思った。
迷亭の真贋不明の法螺話にしても、寒月のバイオリン購入の話にしても、苦沙弥先生と落雲館書生との対決にしても決着がどうなったのか判然としないばかりか、猫が垣根の上で進路を邪魔するカラスと対峙する件など、描写が詳細だった割には猫が諦めて垣根を降りて「はい、お終い」となったときには苦笑してしまったほどで、漱石は山あり谷ありの物語にならないように気を配っている風でもあった。
事実、文庫本の巻末に収録された自序で、漱石は「この書は趣向もなく、構造もなく、尾頭の心もとなき海鼠のような文章であるから、たといこの一巻で消えてなくなったところで、いっこうさしつかえはない。また実際なくなるかもしれん」と書き残していることから、37歳にして処女小説に臨むことへの気負いなど微塵にもなかったことが伺うことが出来る。こうなると「消えてなくなる」どころか、結果として文豪・夏目漱石を世に送る日本文学史上に名を刻む名作となったのは、別次元の出来事のようにも感じてしまう。
この小説は、主人公である猫が、主人の自宅を訪ねて来る迷亭、寒月、東風、独仙といった浮世離れした客人たちの実があるようなないような会話を聞いて、いちゃもんを交えながら記述していくという形式で全編が構成されている。
そこで文学史研究的には猫に仮託した漱石のシニカルな文明批判、芸術批評、人間洞察の辛辣さを読み取ることで大いなる価値が見出されているのだろうが、私はどこか古典落語の世界に通じるものを感じていた。
落語といえば庶民、人間の生活が主役なのだから、そこには当然日常があるわけで、それは例え百年も昔の日露戦争の時代であっても普遍があり、そこを見つけることが私には面白くてならなかったのだ。
なにせ「最近、女学生が堕落したなんていいますが」という台詞が大政奉還からわずか40年足らずの時代にいわれているのだから笑ってしまう。まったく、どの時代の世間を切り取っても堕落のレッテルを貼り続けられているのだから、女学生恐るべしだ。こういうところがたまらない。
しかし考えてみれば、我々は明治を古き日本としてイメージするばかりなのだが、維新や開化を目のあたりとした明治人の方が、平成の我々よりもよほど新時代を実感し、謳歌していたのではないか。時あたかも新世紀を迎えた中で生まれた価値観や普遍性が古色蒼然としたものではないのは当然なのかもしれない。
もちろん彼らの語る薀蓄の数々も、それを聞く猫の分析も漱石自身の持論であり、反語であったりもするのだろうが、本当に面白いのは語り手の個性から滲み出る滑稽さなのではないか。
学者や芸術家たちは浮世離れし、金持ちは俗物で、庶民の中でも自立や個人主義が取り沙汰されている。それらは平成の現代とどう違うのというのだろうか。しかも漱石は迷亭の口を借りて、文明が進むことで自殺者が増え、結婚が減るとまで言及しているではないか。
このとき、夏目漱石37歳。没年が49歳であることを思うと、日本文学を代表する文豪は遅くデビューし、文筆期間も意外なほど短かった。
何も事件らしい事件は起こらず、論客たちの座談も宙をさまようばかり。それでも残りページが少なくなってきたあたりから俄かに寂しさが漂いはじめ、百年経って、すでに苦沙弥、迷亭、寒月たちも鬼籍に入っていることを想像するとなにやら厳かな気分にもなる。
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