◎乙女の密告
◎乙女の密告
赤染晶子
「文藝春秋」九月特別号
【京都の外語大学で、『アンネの日記』を教材にドイツ語を学ぶ女生徒たち。日本式の努力と根性を愛するバッハマン教授のもと、スピーチコンテストに向け、「1944年4月9日日曜日の夜」の暗記に励んでいる。ところがある日、教授と女学生の間に黒い噂が流れ…。】
恒例の「文藝春秋」誌に掲載された芥川賞受賞作を読む。今回の受賞作は赤染晶子という人の『乙女の密告』という作品。今年前期の受賞は該当作品がなかったので、磯崎憲一郎『終の住拠』以来の読書ということになる。
あれからもう一年が経ったのかとも思うが、そもそも芥川賞というイメージがあまりに大き過ぎる割には年に二回も開催され、新人作家が桧舞台に立たされるという循環はどうなのだろうか。新人賞など本来はスタートであるべきなのだが、大きすぎる権威と対峙するため、作家によっては完全にゴールになっているような気がする。文壇事情に疎い私だからこそ恥を書けるのだが、ここ十年で輩出した芥川賞作家のうち、きちんと名前が聞こえているのは吉田修一、金原ひとみ、綿矢りさくらいなのではないか。【読書道】のページを開始してから読んだ青山七重、諏訪哲史、津村記久子などの新作が話題になったという噂も聞いていない。
年二回の出版ペースは商売上仕方ないのかもしれないが、とりあえず商売になるかどうかの舞台に上げて、ふるいにかけていく装置が芥川賞の現実なのだとは思う。濫造気味に思えるのは私だけかもしれないが、それでも芥川賞作家の肩書きは重いということなのだろうか。
さて今回受賞の赤染晶子という人は経歴によると、昭和49年生まれの35歳。京都外国語大学外国語学部ドイツ語学科卒、北海道大学大学院文学研究科ドイツ文学専攻修士課程修了ということなので、アンネ・フランクの日記をモチーフとした『乙女の密告』は作者の経験則に基づかれた作品なのだろう。
作品は非常に読みやすかった。私ごときが純文学を読もうというのだから、読みやすいかそうではないかというのは実に重要だったりする。ただ、どこが文学的に優れた作品なのかまったくわからなかった。
ドイツ語学科でアンネ・フランクと必死に共感を得ようともがき続ける女学生たち (この小説の場合は女子大生というよりも女学生が似つかわしい) が主人公。さらにエキセントリックなバッハマン教授は青い目と金髪のアンゲリカという西洋人形を抱いて「乙女の皆さーん」と絶叫する。「乙女の皆さん、血を吐いてください」などともいう。彼の一番好きな日本語は「吐血」らしい。そして教授はクラスを「すみれ組」と「黒ばら組」のグループに分け、そのグループはやがて派閥化して“女王様”をめぐる主導権争いへと展開していく。
「信じることによって乙女は乙女でいられる」
「スケープゴートになってしまえば、乙女はもう乙女ではなくなる」
そもそも「乙女」という言葉。この言葉は今や冗談話のときにしか出てこない。いや私が物心ついたときから既にそうだった(今なら坂本龍馬のお姉ちゃんか)。だからというわけではないが、この作品の物語自体が冗談に思える。
乙女という言葉が飛び交う女の園が舞台だが、悲運の末路を遂げるアンネ・フランクに乙女として感情移入しても京都が舞台なので、日常語は関西弁だ。
「あたし、アンゲリカ人形の目が嫌いやねん!一緒にいるのがしんどいねん!」「ちゃんと、血ぃ、吐かなあかんやんか!」標準語圏の私にはそれだけで新喜劇を想像してしまう。
『アンネの日記』の一節を暗誦するため『与作』の替え歌を歌い、教授にドイツ語の発音を特訓される乙女たちは「おぇー、おぇー、おぇー」という怪しげな嗚咽を教室中に響かせる。古いラジオから流れていたモーツアルトが演奏を終えると、静寂の彼方から豆腐屋のラッパが鳴り響く。これではまるで筒井康隆ではないか。
ある意味、そういう見方でこの小説を読むと案外楽しめたというのも正直なところだった。純文学に名を借りたギャグ小説としてはいい線をいっていたのではないか。別に赤染晶子という作家を貶めたいわけでもなく、真面目にそう思う。
芥川賞選考委員の選評が読めるのが、単行本では味わえない毎度の楽しみのひとつでもあるのだが、さすがに「純文学に名を借りたギャグ小説」などと論評する御仁はいない。確かに歴史上の稀代な悲劇と女学生たちのドタバタをリンクした物語を「ギャグ」と定義してしまうとブラックの域を超えてしまうに違いない。
私にとって依然として「純文学」の壁は厚い。しかし『乙女の密告』はどう考えても鍵カッコつきの「純文学」に思えたのだが、本質はどうなのだろう。
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