◎一瞬の風になれ
◎一瞬の風になれ
第一部 イチニツイテ 第二部 ヨウイ 第三部 ドン
佐藤多佳子
講談社文庫
笑ってしまうほどストレートな青春スポーツ小説。全三巻ではあるが、コミックをめくるような勢いで一気に読めてしまう。
おそらく本屋大賞の受賞作は全部読もうと決めていなければ手にすることがなかっただろう。その意味ではこういう機会をくれた本屋大賞はよい賞だと思う。何度も書いてきたが、単純に面白い小説、書店員がお客に薦めたい小説というコンセプトというのが、あらゆる文学賞で最も信用できる気がする。
わりとスポ根ものは嫌いではないのだが、どうも私は高校生の青春ものといえば暴力、ドラッグ、セックスが描かれていないと成り立たないというとんでもない先入観を持っていたようで、別にそういうものを避けたからといって偽善とはならないし、描けばそれが真実とは限らないことはよくわかっているのだが、少年サンデーやマガジンで脈々と描かれてきた世界を活字で追いかけることには違和感があるし、そもそも私の世代にはこういうものを小馬鹿にする空気があった。
現実、高校生活のすべてを部活に賭けている高校生もいる。高校総体を目指して青春のひと時を燃やしている若者だって珍しくはないのだから、当然、そういう小説があってもいい。私の食わず嫌いだったに過ぎない。
【新二の周りには、ふたりの天才がいる。サッカー選手の兄・健一と、短距離走者の親友・連だ。新二は兄への複雑な想いからサッカーを諦めるが、連の美しい走りに導かれ、スプリンターの道を歩むことになる。夢は、ひとつ。どこまでも速くなること。信じ合える仲間、強力なライバル、気になる異性。新二の新たな挑戦が始まった。】
こういう小説を読むときには気持ちを主人公と同じ目線、同じ地平に持ってくことが一番。盆踊りの輪の中に入るように、まず照れを無くしてしまうことが先決なのかもしれない。
その意味では主人公の新二が初めて親友の連と学年のスポーツテストで50メートルを走り、何かが弾けてスプリントとして目覚める場面からこの物語に入れた気がしたので、3巻1000ページ近い長編を思えば、読み始めて40ページ目くらいというのは早々に乗れたのではないかと思う。新二の一人称語りという形式も一気に主人公と共感するには大いに助かったということもある。
だから幼馴染の連は別としても教師のみっちゃんこと三輪先生、同学年の根岸、谷口、鳥沢、先輩の守屋、後輩の桃内、鍵山、ライバルの仙波、高梨たちとの関係が親密になればなるほど、読者も彼らに親しみを覚え、小説の中でひとつの世界観が確立することができる。まったく五十路直前のオヤジが高校生と同化しようというのだから、物語とは本当に有難いものだ。
さて照れを無くして読むことはできた。しかしそれ以上に難しいのが、照れずにこの小説の感想を書くことかもしれない。これはなかなか厄介な気がする。
冒頭で「笑ってしまうほどストレートな青春スポーツ小説」と書いた。実際、本を読みながら何度も頬がほころんでいたと思う。主人公・新二の一途さがとことん微笑ましかった。脳味噌筋肉一歩手前のところで高校生らしくがむしゃらに悩みながら、「アドレナリン歓迎!」「乳酸上等!」みたいな直球勝負にはこちらも胸を熱くしてしまう。
正直言えば笑う以上に何度も涙腺を刺激されてウルウル来ていた。おかげで電車の中やファミレスでの昼休みの読書には苦労させられたのだが、これはスポーツそのものが持つ力でもあるようにも思う。
スポーツの一場面に涙腺を容易く刺激させられることは多くの人が経験していることだろう。私は、あれは琴線に触れるというよりも、緊張から歓喜への揺さぶりが直接、情動に飛び込んでくるときの反射神経みたいなものだと思っている。その意味では『一瞬の風になれ』で泣けたということは、作家の佐藤多佳子がしっかりとスポーツを描ききっているという証拠になるのではないか。
そして何よりスポ根ものにありがちな荒唐無稽さが微塵にも感じられなかったこともよかった。小説は友情を描き、淡いながらも恋心を描き、苦悩も挫折も描いている。
しかし、三年間の移ろいの中で、主人公の成長を刻んでいるのは、それぞれの学年で開催される[新人戦][地区大会][県大会][南関東大会]という競技会であり、それらの大会を目標に日々疾走することで新二がひと皮もふた皮も向けていく。
高校の部活が三年間で過ごす行程が詳細に描かれていたのは重要なことだ。神奈川県下の(しかもかなりご近所の高校が舞台となっているからわかるのだが)実在する競技場や沿線の雰囲気など、背景の記述には相当気を配っていたことが伺える。物語が作り物だからといって背景まで作り物めいて書かれると一気に白けてしまうので、これは有難かった。
そして何よりも競技そのものの描写力が秀逸。私は子供のころからかけっこが苦手で、無理やり色分けすればロングスプントタイプ(苦笑)であるので、100mを駆け抜けるショートスプリンターたちの体感はまったく理解できないのだが、作者は素人の想像力を喚起するような臨場感で一瞬の十秒台をよく描ききっていたのではないか。てっきり佐藤多佳子という人は陸上経験者なのではないかと信じてしまうほど臨場感は抜群だった。
とくに短いセンテンスで言葉を重ねていく主人公のモノローグがドラマを盛り上げていく。その筆致は見事だ。
「俺のレーン。5レーン。俺の道。俺の行く道。まっすぐな道。100m。スプリントの夢の道。赤いタータンの走路が、午後の日差しに光って見えた。俺の走る一本のレーンだけが、そこだけ俺には光って見えた。まっすぐに、まぶしく。胸に突き刺さるほど美しく。」
私が好きで野球を観ているのは、どこかに遠い日のキャッチボール幻想みたいなものがあるからなのだが、この小説の新二と連の間には「かけっこ幻想」がある。陸上短距離と出会ってがむしゃらに前へ前へと突進していくような新二に対し、天才ランナーの連は新二とかけっこがやりたくて競技に舞い戻ってくる。
連はサッカーに挫折して、まだ自分の方向が定まっていなかった頃の新二にいう、
「思いっきり走るの、気持ちいいぞお」と。
この連のキャラクターは先日読んだ宮部みゆき『小暮写真館』でのテンコと同じ匂いを感じてしまう。無二の親友だが主人公にコンプレックスを抱かせる天才。宮部みゆきは私と同学年で、佐藤多佳子は一学年下だが、どうも同世代のオバサンたち(失礼)は、少し斜に構えつつも純な天才少年というキャラクターがお気に入りのようで、ある意味、主人公よりも魅力的に描こうとしているのではないかと思える。
たった一日の、それもたった100メートル、十秒台の闘いに焦点を合わせ、膨大な準備と鍛錬に明け暮れるスプリンターたち。一体どんな精神構造を持っているのだろう。
そして『一瞬の風になれ』はそんな短距離走者たちのストイズムよりも4継、100メートルリレーの方にウェートを置く。そこで、思わずYouTubeで北京オリンピックの男子100メートルリレーの映像を探してしまう。束の間のことでもそういう興味を持たせたのも小説の力であるに違いない。
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