◎リリイ・シュシュのすべて
◎リリイ・シュシュのすべて
岩井俊二
角川文庫
一気に読み終えた直後は実に不安定な気分だった。面白かったとか読書を楽しんでいたのかといえば、決して退屈はしていないのだが、完読のカタルシスは薄い。読んでよかったとも思うが、読むべきでもなかったとも思う。ひとつだけはっきりしたことは岩井俊二という稀有な映像クリエーターは、小説の映像や音楽のイメージをスクリーンに映し出せる男だということだった。
【主人公の少年は、家庭にも居場所がなく、同級生の星野たちからも陰湿ないじめを受けている。そんな少年の心の支えは、歌手リリイ・シュシュの紡ぎ出す音楽と、ほのかな恋心を抱いている相手、クラスメートの久野陽子だった。だが星野たちの手によって、神聖な存在である久野が汚され、唯一の救いであるリリイのコンサートへ行くのも妨害された少年の怒りは、ついに残酷な形となって爆発する。】
文庫本はすべて逆開きの横書き。一部に雑誌のレビューやインタビュー、リリイ・シュシュの歌詞に心象風景を映し出したようなフォトが挟み込められている他は、すべてがインターネットの掲示板の画面で綴られている。
いかにも現代的な装飾に彩られた新・小説という趣ではあるが、小説の登場人物たるネットの参加者たちがパソコンをダイヤルアップで繋いでいたように、これが発表されてから十年が経つ。
私などようやくマッキントッシュのパフォーマーを購入して、ワープロの代用にする程度で、そろそろ店内のポップなどをちまちまと作り始めた頃だったか。まだネットのBBSなど、そういうものがあるという噂を聞いていた程度だったと思う。
それから森田芳光の映画『ハル』があり、ネットでのコミュニケーションが私が想像していた以上に広がっていることを知るのだが、映画『リリイ・シュシュのすべて』を観たときでさえ、まだ私のパフォーマーはネットには繋がっていなかったと思う。
私が仕事ではなく趣味としてインターネットを始めたのは2003年の年明けくらいではなかったか。そのときの驚きは鮮烈だった。大袈裟でも何でもなく、世界が一変したように思えた。ハンドルネームという匿名を使うことに妙な高揚感があったし、氏素性も性格も年齢・風体も(性別さえ)わからない相手とのやり取りも刺激的だった。一時期は寝食も忘れるほど、気がつけば掲示板に接続していたのではないか。あの頃は職場の同僚や取引先の担当者と話をするよりも、掲示板でキーボードを叩きながらのバーチャルな会話の方がむしろリアルなのではないかと思うくらい、のめり込んでしまっていた。
文字でのやり取りなので、言葉の微妙なアクセントが伝わりにくい。相手が気分を良くしているのか害しているのかさえ不明瞭で、それを理解しようと深読みすると却って感情の齟齬を起こし、何度か言葉尻を捕らえられては空論を応酬し、辟易されられたことも一度や二度ではない。さらに私の場合はハンドルネームがよくなかったのか、かなりの年配者だと思われていたようで、正体が現したときには少なからず落胆させてしまったこともあった。そういうことも含めて何もかもが刺激的だったのだ。
結局、ネット社会への参加など四十の手習いもいいところで、類は友で匿名性に寄りかかる必要のない気の合う人たちとの交流に落ち着いたのを幸いに、今は熱狂から身を引いているのだが、この小説の前半部の200ページ余りで展開する掲示板の応酬は読んでいて何とも懐かしかった。
もちろん我々が言葉を応酬していた掲示板と『リリイ・シュシュのすべて』の舞台となる“Lilyholic”は似ても似つかない世界観であるのは間違いないのだが、出来れば小説はこの文字の応酬だけで全編を貫いて欲しいと思ったくらいだった。何せ出入り自由、年齢、性別詐称はもちろん、一人二役も横行する世界だけに工夫次第ではそこから面白いストーリーをいくつか編み出せるような気がしたのだ。
例えば掲示板上で何かしらの事件が発生し、何人かの容疑者が書き込む言葉の中から探偵が真犯人を突き止めていくなんて楽しいではないか。それだけで究極の安楽椅子名探偵が作り出されるし、もともとがバーチャルなのだから真実が虚実皮膜の淵で浮いたり沈んだりするのも面白いと思うのだ。
実は『リリイ・シュシュのすべて』ではそういう展開になるのような雰囲気を醸し出していた。もちろん岩井俊二が監督した映画を観ているので、話がそうはならないことを私は知っていたし、予定通り物語は転調して主人公サティの独白が延々と綴られ、そこからの物語は忠実に映像化されたものだった。
さて、冒頭に記した「不安定な気分」に話を戻す。
本書の解説者である重松清はそれを「不安」と表現している。実際、私は今までの読書履歴の中で、初めて物語世界に入り込まないための努力を、本を読みながらしていたように思う。これは実に未曾有の体験だった。何故なら、小説からカタルシスを得るため、どんなジャンルの物語でも少なからず小説世界の中に入り込み、登場人物に感情移入することに努めるのが読書の楽しさだと思っていたからだ。
それは物語に描かれる悲惨ないじめや少年犯罪の実景を思い浮かべる辛さから逃れたいのだという単純な話ではなく、姿を見せないリリイというシンガーソングライターの放つオーラや彼女に集中する熱狂のサークルに獲り込まれてはならないという抵抗感だった。エーテルと呼ばれる精神世界は抽象的なものでも、私の場合はすでに映像としての『リリイ・シュシュのすべて』の洗礼を浴びて、さらに小林武史による音楽も耳に残っている。映像と音楽と小説による三どころ攻めは強烈で、これが遺作ならばよかったという岩井俊二。まったく恐るべしではないか。
試しに『リリイ・シュシュのすべて』の掲示板はまだ残っているのかなと検索してみた。驚いたことに十年が経過して、大阪弁でパスカルが引き継いでページを運営しているではないか。恐る恐る掲示板を覗くと依然、書き込みが続いていた。
「あの事件以来、ボクは殺す人に怒りとは違う、殺される人にも同情とは違う感情を抱くようになりました。なんやろか」とパスカルは書いていた。
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