◎ユリゴコロ
◎ユリゴコロ
沼田まほかる
双葉社
真夜中のラブレターは、目を覚ましてから書き直した方が良い。よくいわれるフレーズだが、それだけ真夜中には不思議な力が働いているということだろうか。もしかしたら「真夜中の読書」にも不思議な力があるのかもしれない。
職場帰りに図書館で予約していた沼田まほかる『ユリゴコロ』を手にして、満員電車で無理な体勢で本を開き、駅前のケンタッキーでチキンを胃袋にコーヒーで流し込みながら閉店までに半分読んでしまっていた。それから帰宅して一気に午前3時まで完読してしまうのだが、久々にサボりまくっていた集中力をフル活動させられた心地良い疲労感があった。これはおそらく真夜中の力がそうさせたのだろう。もちろんラブレターと違い翌朝に冷静になって読み返す必要などまったくないのだが。
そして『ユリゴゴロ』は間違いなく真夜中の力をフルに引き出すことのできる小説だ。むしろ真夜中に一気読みされるのを想定して書かれた小説のようにも思った。沼田まほかる恐るべしか。
【婚約者の突然の失踪、父のガン宣告、母の交通事故死。度重なる不幸に見舞われていた亮介が実家で偶然見つけた「ユリゴコロ」と名付けられたノート。それは殺人に取り憑かれた人間の生々しい告白文だった。創作なのか、あるいは事実に基づく手記なのか。そして書いたのは誰なのか。謎のノートは亮介の人生を一変させる驚愕の事実を孕んでいた・・・。】
「あのときにはまだ、何ひとつ損なわれていなかった。あの夜の何もかもが、壊れる寸前の輝きに包まれて、僕の記憶のなかをきっといつまでもさまよい続けるだろう。」
オープニングにこんなフレーズが出てくる。本を開いた途端、これはこの作者の前回読んだ小説と同じモチーフではないかと少し身構えてしまった。
『九月が永遠に続けば』には私は少なからず辛口の評価を残した。何気なくも平凡な日常がある日を境に壊れていくまでのサスペンスと、そこから始まっていく猜疑心で心が闇に覆いつくされていくまではハラハラドキドギしながら読ませたのだが、後半から結末に至って物語は失速し、最後は大いに肩透かしを食わされたような気分になってしまったからだ。
しかし『ユリゴコロ』では冒頭のわずか5ページで婚約者・千絵の蒸発、父親の末期がん宣告、母親の突然の交通事故死と矢継ぎ早に主人公・亮介の一人称の語りで説明される。まずはこのスピード感で一気に小説世界に引きづり込まれてしまう。まさに「神とか運命とか、そんなものについて深く考えたことはなかったが、今は何か悪意に充ちた得体の知れないものが、僕のまわりに陰湿な罠を張りめぐらせているように思えてならない」となる。
ならば、残りのページの殆どで「悪意に満ちた陰湿な罠」にはまり込んでいく主人公の姿を延々と読んでいくことになるのかという嫌な予感も走る。やはり『九月が永遠に続けば』の後味がそう思わせてしまったのだろう。
それでも私が沼田まほかるの単行本を図書館に予約したのは、彼女の卓抜な筆致に感じ入ることが出来ていたからだと思う。そしてその筆致はまさに大人の技巧ともいうべきもので、それが亮介が実家の押入れのダンボールから見つけたノート四冊の手記でいかんなく発揮されていくことになる。
物語はその手記で人称が入れ替わる。我々は亮介と一緒にその手記に綴られた連続殺人者の想像を絶する世界に入っていくことになり、時折、手記に残された謎を亮介と推理する趣向も織り込まれている。
その手記の書き手はしばらくすると女であることがわかってくるのだが、そうなると沼田まほかるの独壇場ともいえる筆致が展開していく。手記の部分はフォントを変えて亮介主観による現実世界と区別させているのだが、その明朝体を細く崩したようなフォントで描かれる精神世界はかなり残酷でグロテスクであり、妙な懐かしさと美しさがある。ユリコと名づけた人形、アマガエルで池で溺れ死んだミチルちゃん、水面に浮かぶ赤い傘。リストカッターのみつ子の血が染みていくベッド。まるで真夜中の力を取り込むように読者の目を釘付けにしていく。もう絶対に男には書けない世界なのかもしれない。
しかし異常な世界ではあるが、人称が亮介に戻ることによって何度かクールダウンする間が与えられて小説そのものは異常にはならない。その手記の書き手は父なのか、それとも母なのか。それとも亮介が幼いときよりずっと抱えこんでいた「母親が入れ替わった」ことの疑問への答えなのか。
手記を一気読みするのではなく、何度か中断させ、弟に相談しながら一旦、客観的な評価を加えていくのは沼田まほかるの構成力の巧さなのだろう。
しかもあろうことか手記を離れた亮介の日常描写に作者は巧みな伏線を入れていく。その伏線を伏線として見破る読み手ではない私は、最後のドンデン返しに驚くことになり、今さらながらこの『ユリゴコロ』がきちんとしたミステリーであったことに気づかされるという情けなさではあったのだが、こういうことに鈍感であるほうが、この小説の読者としてむしろ幸せなのではないかとも思うのだ。少なくとも問題集を探るような視点で『ユリゴコロ』を読むという味気ない気分だけは味合わなくて済んだのだから。
他に特筆すべて点は、主人公の両親への思いがあり、失踪した婚約者への思いがあり、弟への、祖母への思いもしっかりと書き込まれてることだろう。過去に遡っては祖父母から姉妹の機微まで描き、最後のほうには弟の恋人まで丁寧に描かれている。一見、恐ろしくもやるせない世界を描きながらも不思議とこの物語の背景には家族の絆が見え隠れしている。
確かに異常連続殺人者を描きながらも家族の愛を描くという矛盾に対して、すべての読者が納得しているのかといえば、そう思わない人もいるのだろう。しかしこの離れ業に沼田まほかるは成功したのではないかと私は思っている。
・・・そう思ってしまったのは、『ユリゴコロ』を真夜中に読み終えたからかもしれないが。
a:2221 t:1 y:0