◎ビート

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◎ビート −警視庁強行犯係・樋口顕
今野 敏
新潮文庫


 「この作品がものにできたのは、作家今野敏にとってたいへん大きなことだった。(中略)私はこの作品が書けたから、その後も警察小説を書き続けることができたと思っている(中略)本人が言うのも変だが力作だ。じっくり楽しんでいただきたい」。
 今野敏自身が巻末のあとがきでここまで書くのだから、読了後に手応えがないわけがない。事実、この感想文を書くため、数週間前に読み終えた本作をパラパラっと読み返してみたが、思わずページを止めて読み耽ってしまうことしばしだった。
 もしかすると、この樋口顕シリーズ第3作の『ビート』は『隠蔽捜査』に匹敵する完成度なのかもしれない。

 【警視庁捜査二課・島崎洋平は震えていた。自分と長男を脅していた銀行員を殺害したのは次男ではないかと。ダンスに熱中し、家族と折り合わない息子だが、被害者と接触していたのは事実だ。捜査本部で共にこの事件を追っていた樋口顕は、やがて島崎の覗く深淵に気付く。】

 この作品には前二作にあった停滞や詰めの甘さが一切ない。何よりも主人公の樋口顕のプロフィールにスペースを割く必要性から開放されたので中身が濃くなった。
 もちろん警察小説というエンターティメントなジャンルであるがゆえに、ストーリー上で御都合主義的な部分はあるし、偶然性に依存した転換がないわけではない。
 しかし、表層のストーリーより、あくまでも人間ドラマであろうとする今野敏の意欲と熱気がほとばしった作品に仕上がったのではないか。

 息子を殺人者だと思い込んで苦悩する父親。というシチュエーションは歌野晶午の『世界の終わり、あるいは始まり』を想起させる。あれはパンドラの箱を開けるとそこには魂の無間地獄が待っているのではないかという恐怖が、これ以上突き詰めると純文学になってしまうのではないかというテンションまでいってしまうのだが、『ビート』は、ギリギリのところで痛快娯楽小説の面目を保っていた。そこに驚きを感じる。
 このシリーズのモチーフを事件と人間を通した世代間ギャップを描く物語だと定義するならば、『ビート』は、いよいよ両者の関係性が火花を散らし、衝突していく。そして衝突の中から今野敏は融合するものを模索しようとしている。『リオ』も『朱夏』も『ビート』のための伏線だったのではないかと思えるくらいだ。
 分別のついた大人にとって、若者の不確定な揺らぎは脅威ではある。ときには「怪物」に見えてしまうのかもしれない。『ビート』のユニークな点はそのふたつの世代の双方からの視点を実に人間的に描いており、そこに大いなる救いがあることだろう。
 
 家族の問題というのは何よりも面倒くさい。つい仕事に逃げたくなる。だが刑事という仕事は逃げ込むにはきつすぎる…。今野敏は捜査二課の島崎洋平警部補をとことん追い詰めていく。ときには捜査資料を漏洩した罪に怯え、ときには息子が殺人者なのではないかという疑心に苛まれていく。捜査本部に参加しながら事件の核心が自分に近づいてくるのではないかという圧迫感。このような事態を引き起こしてしまった自身を後悔し、降りかかる不条理を呪おうとする。
 一方で島崎の次男である十七歳の英次の葛藤も丁寧に描く。父親と長男から疎外された孤独感からグレてしまい、高校を中退し、家族とは没交渉という典型的な不良少年。父親を憎み、兄を軽蔑し、世の中を拗ねて生きているのだが、自分の居場所を見つけようと必死で足掻いている。
 英次の描写は前作『朱夏』で氏家譲がいう「大人になる機会を与えられなかった奴ら」という若者像の範疇にあり、その分だけやや類型に流されていると思わないでもなかった。しかし例えば「自分たちが出したゴミは持って帰る。みんなそうしているんだよ」と叱ってくれた年上のタエにひと目惚れしてしまうあたりに、読者は英次の純な心根を見出して彼に感情移入してしまう。
 今野敏は心理的に追い詰められていく父親をサスペンスドラマとして、タエと一緒にダンスに生き甲斐を見出そうとする次男を青春ドラマとして、ふたつのエスプリを加味しながら世代間のギャップと衝突を表現していくのだが、読者が英次に感情移入してしまうことによって、彼が本当に殺人者になってしまうのかという心理を父親と共有することになり、思わずドキドキしてしまう。このあたりの読者心理の操作は本当に巧い。
 果たしてこの両者の衝突に救済はあるのか。詳しいことは書かないが、ここでようやく樋口顕の出番が回ってくる。相変わらず妻に罵られたり笑われたり、娘の遊びに同行して氏家にからかわれたりしながらも、敢然とこのシリーズの主人公が樋口顕であるという存在感を発揮して読者の溜飲を下げてくれる。

 「雨の季節は独特のにおいがする。さまざまなものが雨に濡れることで特有のにおいを発するのだ。」
 「糞やゲロにまみれ、いつも寝不足でぶったおれそうになり、刃物や銃弾の下をくぐっているのが警察官だ」
 「月が変われば、ツキも変わると、捜査員はよく口にする。犯罪捜査にはツキがおおいに影響するのだ。人の生き死にに関わっているうちに、刑事はだんだん信心深くなってくる。無常観のせいかもしれない」

 前二作とは格段に文章も練られているではないか。
 


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