◎パーク・ライフ

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◎パーク・ライフ
吉田修一
文春文庫


 【公園にひとりで座っていると、あなたには何が見えますか?スターバックスのコーヒーを片手に、春風に乱れる髪を押さえていたのは、地下鉄でぼくが話しかけてしまった女だった。なんとなく見えていた景色がせつないほどリアルに動きはじめる。】

 妙なことをいうようだが、何かとてつもなく曖昧模糊な言葉を羅列しながら意味ありげに文脈をまとめてしまえば吉田修一『パーク・ライフ』の書評は形を成してしまうのではないかと思った。言い換えれば、どの様な書き方をしても物語の中で語られる事柄をなぞっただけの解釈文になりかねない危うさを感じている。
 「日常が瑞々しく描かれている」「彼らの生き生きとした会話が気持ちよく不安を駆り立ててくれる」「癒しを求める彼らの深層心理が行間から浮遊してくるようだ」……全部それらしく嵌りそうな気がしてくるので困ったものだが、実際、映画評論家が作品を語るときにこういう手法をとっているものを散見することがある。自分なりの解釈を披露するのは結構だが、自分に向けての解説をしてしまったら評論としてはどうなのだろう。どうも私はこの小説を読みながら感想文を成立させる切り口をずっと考えていたように思う。
 いや、こんなつまらないことに気をとられていたものの、決してつまらない読書ではなかった。むしろ行間の大きな文庫版に百ページにも満たない文字量がもどかしく思うくらいに気持ち良くページをめくっていた。
 確かに日常描写の際立ちは会話のテンポのよさと相俟って特筆するべきものがある。それは『パレード』で4LDKに住む若い男女の日常に永遠と閉じていく宇宙を感じさせたように、吉田修一には拡散しながら収縮していく世界観があるのかもしれない。そんな世界観が日常描写の中にふと割り込んでくるものだから緊張感があって読書を楽しいものにしてくれる。

 地下鉄を日比谷公園口から降りて、うつむきながらベンチに辿り着いた時に遠近を乱して一気に視界に飛び込んでくる風景。スターバックスコーヒーに次から次へとやってくる“私”の群れ。
 
 『パーク・ライフ』の主人公たちは特別な情動に揺さぶられることもなく、地下鉄から日比谷公園、スターバックスコーヒーで周囲の行き交う人波をウォッチしながら風景を刻んでいくのだが、吉田修一は『パレード』ほど日常が最終章に向って突き進んでいく強いベクトルを用意しているわけでもなく、同時収録された『Flowers』のように日常そのものが得体の知れないストレスを孕むものだと言い切っているわけでもない。
 最後に“彼女”が何を決心したのかさえも曖昧にして物語の幕を降ろしてしまいながら、日比谷公園にある「心の池」、駒沢公園の雑貨屋に売られている人体模型、ライトアップされた日原鍾乳洞の写真、臓器提供を呼びかける車内広告などのロジックを集めて物語全体が巨大な体内であるように思わせている。主人公たちは立位体前屈や片足立ちをやりながら血液を循環する「生」そのものであるのかもしれない。生命が躍動するフィールドは日常以外には有り得ないのだから。
 “彼女”の決心の裏に新たな生命の誕生を予感させなくもないが、それでは「自分に向けての解説」になってしまいそうなので保留にしておきたい。

 本作が芥川賞受賞作品だったことは読後に知った。


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