◎ジェノサイド
◎ジェノサイド
高野和明
角川書店
なるほど評判通りの面白さだ。作家が自分のスキルと膨大な資料と取材に費やした時間のすべてを投下して、読者をハラハラ、ドキドキさせよう、なによりも楽しませようという思いが単行本600ページの分量から十二分に伝わってくる。この熱情が込められた渾身のエンターティメントを図書館で借りてしまったことに後ろめたさがあるのだが、せめて昨年末に豊島区図書館に予約して、実に8ヶ月も待たされていたのだということで勘弁してもらえないだろうか。あるいは高野和明の長編デビュー作だった『13階段』は12年前に新刊で購入しているだから、それで許してはくれないだろうか。ダメか?そりゃそうだろうな。
【創薬化学を専攻する大学院生・古賀研人は、父親の不可解な遺書を手掛かりに、隠されていた私設実験室に辿り着く。同じ頃、特殊部隊出身の傭兵、ジョナサン・イエーガーは、難病に冒された息子の治療費を稼ぐため、ある極秘の依頼を引き受けた。彼はは暗殺チームの一員となり、戦争状態にあるコンゴのジャングル地帯に潜入するが…。】
『ジェノサイド』は主として三つの拠点を舞台に同時進行していく。ホワイトハウスの大統領シチュエーションルーム、アフリカ大陸の戦闘地区コンゴ共和国、そして東京の町田のあるボロアパートに設えた実験室だ。
と、ここまで書いて早くも私のキーボードを叩く手が止まってしまった。食卓一杯に並べられた御馳走を一気食いして胃が悲鳴を上げているときに、料理の感想を書けといわれても、「ちょっと消化するまで待ってくれ」という心境に近い。しかもその食卓には豪華なフランス料理もあるが、茶碗に盛られたご飯もあり、パスタ、ピザや肉団子にレバニラ炒めに乾き物まで添えられていった状態で、今はちょっと食い物のことは考えたくない状態ではあるのだ。
しかし一気食いしたのは正解だった。おそらくゆっくりとひと皿ひと皿を味わっていたらこの高カロリーの食事を完食する高揚感は味わえなかったのではないか。
そう高野和明『ジェノサイド』はかなりカロリーの高いエンターティメントだった。そしてそれは肥満を恐れずに完食の満腹感に浸っているときが一番の幸福なのであって、消化が進むと、胃液が逆流もするだろうし、下痢も起こすだろうという、なんともさえないオチになりそうな予感も孕んでいる気がしないでもない。
それはアフリカの密林の中で決死の戦闘を繰り返すイエーガーたちの迫真性と比べ、亡き父親の伝言に導かれるように事件の核心に入っていく薬学の大学院生・研人の描き方には最後まで違和感が拭えなかったことだ。
もともとノンポリの研究生であるゆえに自分の置かれた状況がすぐには把握出来ないもどかしさはわかるとしても、父親の不倫に疑惑を持つ場面など必要としたのか。さらに偶然目にした肺胞上皮細胞硬化症の女の子への同情が突然高まって使命感に燃えるなど、そのあまりにも無垢な愚直さにはやや違和感を拭いきることが出来なかった。父親から過大な評価を得るだけの幼少期の気の利いたエピソードでもあれば大分違うのだろうが、巨大な背景の中に巻き込まれる主人公ではあるのだから、そこはもう少し丁寧に描いて欲しかったと思う。
「ジェノサイド」(大量殺戮)という言葉を最初に認識したのは広島への原爆投下だった。ところがジェノサイドであったのかなかったのかについては国連や国際司法裁判所の定義や判決があり、その解釈をめぐっては議論百出なのだという。結局、広島、長崎はジェノサイドのカテゴリーから外れているらしいが、実際に大量殺戮や起こったことに対してもその適応で揉めるのだから、行き着くところ、歴史とは戦勝国によって作られていくという事実の傍証に過ぎないということなのか。
それにしても人間を大量殺戮に駆り立てられる心理とはなんだろう。国家、宗教など様々な要因があるのだろうが、極限、憎悪、狂気の中で対象を大虐殺する霊長類はヒトだけに備わった現象なのだという。もはや下等動物の摂理であるとしかいいようがないが、この小説ではそのことを嫌というほど突きつけてくる。
とくに10歳の年嵩もいかない少年が兵士として駆り出されていくエピソードは強烈だ。これは地獄図としかいいようがないが、おそらく事実なのだろう。そこでこのような凄惨な事実もエンターティメントという「面白主義」に取り込まれてしまうことに一抹の疑問は感じてしまうのだが、これはもうエンターティメントの原罪と呼ぶべきことなのかもしれない。
実際、『ジェノサイド』からは事実上の世界最高峰の独裁者としての合衆国大統領と、その決定機関であるホワイトハウスへの強烈な批判を読み取ることが出来るし、それはブッシュの戦争及びネオコンの台頭への高野和明の義憤も十分に伝わってくる。しかし、それ以上に三つの拠点を同時進行させるストーリーの整合性に腐心する作家の姿も見え隠れしてしまうのだ。
エンターティメントの原罪と書いたが、実際にどれだけ取材を重ねようが、狂気を帯びた目で自分を殺しに来る子供たちの流血と飛び散る肉片は作家の頭の中で創造されたことであり、さらにそれを読む我々が脳内に映像を作るという何重ものバイアスに支えられている以上、これはもうエンターティメントの偽善といえることなのかもしれない。
それでも強い批判精神をもって作品テーマを見出した作家が、そのテーマをどうストーリーに生かし、どのように登場人物を組み立てるのかという作業はやはりプロの仕事として敬意を表したい。
何度かこの[読書道]でも触れてきたが、たとえエンターティメントに原罪や偽善があろうとも、私はご高説ごもっともな論文よりも、物語を編んでいく力の方が偉大であると信じるの読者であり続けるのだと思う。
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