◎カカシの夏休み

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◎カカシの夏休み
重松 清
文春文庫


 【ダムの底に沈んだ故郷を出て二十年、旧友の死が三十代も半ばを過ぎた同級生たちを再会させた。家庭に仕事に難題を抱え、人生の重みに喘ぐ者たちを、励ましに満ちた視線で描く表題作始め『ライオン先生』『未来』の三編を収録】

 ついこの間、「未読の作家に対する興味の方を今は優先したい気持ちになっている。読書の大半を創作もの(小説)に偏らせつつ、先入観のない作家との出会いによって、斬新な物語や表現への驚きをもたらせてくれるのならば、それこそ読書の醍醐味なのではないかと…」などとエラそうに書いておきながら、しばらく重松清に没頭する。
 それこそ重松清には「斬新な物語や表現への驚きをもたらせてくれる」ことを期待したいと思うからだ。確かに等身大の主人公たちの身につまされるエピソードの数々は、ある種の重さを伴って、心の襞に響きすぎるし、相当につらいのだが、そこから逃げるとか逃げないとかの話ではなく、常時、胸を突かれるような読書というのも面白いのではないかと思いはじめている。
 ただ重松清を3冊読んで感じたのは、読書中に何度も名文に遭遇し、それに唸らされたことを臨場感たっぷりに感想文に入れ込むだけの表現力が自分にはないのだということ。納得のいく重松清の書評をやろうと思えば、結局、自分はもう裸になるしかないような気がする。

 重松作品を「共感」というキーワードで読んでいたが、そこに「反発」というファクターも存在することに気がついた。「共感」も「反発」も背中合わせにある。自分自身の情けなさやコンプレックスが物語と共鳴すると、どうやらそこに反発心が芽生えてくるのを禁じえないようだ。表題作『カカシの夏休み』の主人公、カカシ先生には反発を覚えた。
 生徒達から陰でカカシと仇名をつけられている小学校教師が、事故死した同級生の葬儀で22年ぶりに仲間と再会したことで、ダムの底に沈んだふるさとの町へ帰ろうとする物語は、仲間たちがそれぞれに家庭や仕事に問題を抱えていることを拾いながら、過去と現実が互いに相反し合うような展開となっている。
 冒頭は次の言葉からはじまる。
 
  帰りたい。
  ふと思った。

 私は決して過去を振り返り続けている人間は嫌いではない。そういう人たちほど現実をしっかりと認識していると思うからだ。現実は過去と地続きの上に成り立っている。逆に未来だけを語る人は、それが楽観にしろ悲観にしろ、現実感がなくて、常に言葉がうわずっているような気がしてならない。前を向くというのは悪いことではないのだろうが、前だけを見ている人はあまり信用できないのだ。
 小学校教諭のカカシ先生はいつも目前の困難と闘っている。とても明日を夢みる余裕などない。だから過去に逃げ込もうとする。それは共感できる。しかし共感しながらも、過去の経験値から培われたことに現実の自分が縛られすぎているように感じて、私はそこに反発を抱いた。
 22年前にダムに沈んだ故郷があり、それが記録的な日照り続きでダムが渇水して、あの生まれ故郷がダムの底から蘇るのではないかというのは、小説のファンタジーとしては面白いのかもしれないが、泥まみれの朽ち果てた町が現れるであろう現実に対して、カカシ先生の覚悟のなさが気に入らなかった。町を自治体と建設会社に「売った」父親への贖罪の思いも引きずりすぎではないだろうか。
 当然の話として、私自身が主人公だとしたら、おそらくカカシ先生のように思うに違いなく、だからこその反発なのだが。

 『ライオン先生』は本当に面白かった。この中篇に対してくどくどと書くと、かえってつまらなくなりそうで怖い。
 ライオンのたて髪のようなヘアスタイルの熱血先生は、新任の頃、教え子と恋に落ち、困難の末に結婚までこぎつけたものの、23歳の若さで先立たれるという経験を持っている。
 主人公はそういう過去に苦しめられ、不登校の生徒に悩む現実にも苦しんでいる。しかし『ライオン先生』が面白い話になったのは、過去と現実の狭間でもがく象徴としてライオンのたて髪が実はカツラで、過去を乗り越えて現実に立ち向かう決意が、そのままカツラを脱げるかどうかというわかりやすい話で提示されていることではないのか。そこに爽快感があり、とても好きな話になった。
 しかし、「職を失って断ち切られたものは未来ではなく過去だ」という一文は、ユーモアに満ちた話の中だからこそドキっと胸に突き刺さってくる。過去と現実が互いに相反し合うのは『ライオン先生』でも通奏低音になっている。

 『未来』も同じく過去と現実の物語に「死」が暗い影を落としている。しかも今度ばかりは現実の「死」が容赦なく過去の「死」を照射していく。
 私は『未来』の主人公が高校を中退した娘であるということで、前二編とは違う感覚で読んだのだが、重松清自身のあとがきにあるように「帰りたい場所」「歳をとること」「死」というモチーフが、この『未来』では少々ズレているのではないかとも感じた。
 実はカカシ先生とライオン先生は、過去の呪縛に苦しんでいたと同時に、過去が風化していくことにも苦しんでいた。それが胸の中に「帰りたい場所」を作り上げていったのだが、『未来』の“わたし”が同級生の死によって中退を余儀なくされた高校に切実に帰りたがっていたとは思いにくい。
 過去に電話で自殺をほのめかしてきた同級生に対して「じゃあ死ねば?」といってしまったために、自殺の原因にされてしまった過去のわたし。そして今、いじめを苦に自殺した同級生の遺書に弟が名指しされ、世間とマスコミに叩かれている現実のわたしの家族。
 過去と現実に起こる悲劇性でいえば前二編を凌駕する深刻さで、重松清の筆致が冴えまくって怖いくらいなのだが、これが重松清と同世代の等身大の「ぼく」ではなく、未青年の娘の「わたし」の物語であったことで、ほんのりと救いのある物語になっているような気がする。
 ここまで読んで思ったのだが、重松清の描く女の子はいつも逞しく、主人公というよりも「ヒロイン」と呼ぶにふさわしい存在になっている。
 今後、続けて読む重松作品でも「共感」と「反発」を繰り返すのだと思うが、たまに元気なヒロインが出てきてスカっとした気分にさせてくれることにも期待したい。


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