◎こころ
◎こころ
夏目漱石
新潮文庫
【「自分は寂しい人間だ」「恋は罪悪だ」。断片的な言葉の羅列にとまどいながらも、奇妙な友情で結ばれている「先生」と私。ある日、先生から私に遺書が届いた。「あなただけに私の過去を書きたいのです…。」遺書で初めて明かされる先生の過去とは?】
「ふへん」という言葉を“普遍”と書くのか“不変”と書くのか、どちらが正解で、どちらが用いられる頻度が高いのかはわからないが、とにかく「ふへん」であることで圧倒させる作品だった。
夏目漱石『こころ』の読後感は人によって捉え方は様々だろうし、一人の読者でも人生のどの時点で読んだのかということも問いてくるものだとは思う。もし十代、二十代のうちに読んでいたとして、今こうして五十手前になって再読した場合に『こころ』が自分自身のなかでどのように変遷していくのかには興味はあるのが、それでも非常に消極的な感想をいえば十代の頃に読まなくて正解だったようにも思った。おそらく十代では登場人物たちの心理に正解を求めようと頭でっかちにになってしまったのではないか。漱石は『坊ちゃん』と『三四郎』しか読んでいないが、「非人情」「則天去私」などという知識を国語の授業によって暗記させられているなかで、もし教室で『こころ』が教材として取りあげられていたとすれば、殆どを解釈に傾きすぎていたのではないかという気もする。
この物語は決して多くのことを語ろうとはしない。「私」が「先生」に、「先生」が「K」に、それぞれが深入りしていく理由がまずわからないし、「K」が自殺した動機も遺書の中で先生の見立てでしか語られていない。危篤の父親を郷里に置いて飛び出した「私」が遺書を総括して見せる結章すらも存在するわけでもない。
先生の自殺が明治天皇の崩御、乃木希典の殉死に直接に結び付けてよいのかはわからないが、少なくとも命を断つことの動機づけとなり、その指針を得たことは間違いないのだとなると、私の感じた「ふへん」の拠り所も軌道を失うような気がしてならない。何故なら、乃木大将の西南戦争で連隊旗を薩摩軍に奪われたという汚点が、日露戦争を経て「聖将」とまで崇められつつも、三十五年の歳月を有しても精神的名誉が挽回されないことを苦にして自刃する精神風土を理解しろといわれても難しいのではないかと思うのだ。
以上のように『こころ』には不明瞭な要素がこれだけあるのだが、それでもなお、私が「ふへん」であると感じたのはどうしたわけだろうか。
我々は夏目漱石や森鴎外などの明治期の小説は近代文学と教わったように記憶しているのだが、いまや古典文学に分類されているという話も聞く。そうなると『こころ』などは読書というよりも国文学の教材という位置付けをされかねないのだとすると、夏目漱石という作家への知識と理解、明治という時代の気質を理解する必要があるという課題も生じ、ここでも「ふへん」と定義することへと障害があるように思う。
「私は今より一層淋しい未来の私を我慢する代わりに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と独立と己れとに充ちた現代に生まれた我々は、その犠牲としてみんなこの寂しみを味わわなくてはならないでしょう」
先生のこの科白で見えてくるものは虚無と紙一重の人生の諦観のようでいて、大きくうねった明治という時代の終焉に死が重なっていくことへの漱石自身の予感のようでもある。しかし、私が「ふへん」であると思った理由を物語の三人に“共感”に求めるとしたら、それには無理があるといわざるを得ない。
私は「K」にも「先生」にも自分と同じ感性の発露を見出すことはあっても、やはり両者のどちらにもなれない。そして私が「私」だとすれば、もしかすると「奥さん」にいつの日か先生とKの間に起こった恋の葛藤を打ち明けてしまうのかも知れない。奥さんには夫が自殺する理由を知る権利があると思うからで、先生は奥さんに対して贖罪の思いを告げる義務があるべきだとも思うのだ。おそらくそれは何も報せらせてもらえないまま残りの人生を生きていく奥さんの不憫さに負けてのことなのだろうが…。
それでも私はこの上中下の三章からなる物語の小さな活字を老眼の入った目を擦りながらも夢中で読みきった。当時の東京市界隈の風俗を現在の土地鑑と照らしていくのも楽しかったし、明治の若者像を平成のそれと比べながら口元が緩んでくる場面も多々あった。明治の時代にあって「自由と独立と己れとに充ちた現代」などと表現されると妙にどぎまぎしてしまうのだ。
“恋愛と青春”という物語の一面を切り取れば、明治も平成もなく、そこに大いなる「ふへん」を見出すことは可能ではある。もちろん、そういう結論で私を圧倒した「ふへん」をまとめるのはいかにも陳腐なのかもしれないが、夢中で読んだ『こころ』の中で、私が最も惹きつけられたのが、先生が遺書に託した葛藤と嫉妬が混沌する恋愛の激白だったことを正直に書いておきたい。
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