◎国境の南、太陽の西

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◎国境の南、太陽の西
村上春樹
講談社文庫


 奥付を見ると、[2006年6月1日37刷発行]とある。干支ひと回り。やれやれ随分と長いこと本棚の肥やしにしていたわけだ。文庫カバーの書店もすでに閉店して、駅前のロータリーとなった。この部屋に本棚なんかないのだが。

 【今の僕という存在に何らかの意味を見いだそうとするなら、僕は力の及ぶかぎりその作業を続けていかなくてはならないだろう――たぶん。「ジャズを流す上品なバー」を経営する、絵に描いたように幸せな僕の前にかつて好きだった女性が現われて――。】

 高校生くらいの時まで、「性愛」は「純愛」の反対語だと信じていた。大学に入ってからもしばらくそう思っていたかもしれない。そもそも純愛=プラトニックという定義を疑うことはなかった。
 ・・・・一体、セックスや肉体の欲求を考えない純愛などあるのだろうか。
 村上春樹『国境の南、太陽の西』を一読して、これは性愛に満ちた(偏愛ぎりぎりの)純愛小説だと思った。

 などと書いてしまったが、ここで「性愛」と「純愛」について考察する気はさらさらなく、この小説の序文のにものすごく引っ掛かりを覚えたことを中心に感想を書いていきたい。
 「僕は一人っ子だった。そして少年時代の僕はそのことでずっと引け目のようなものを感じていた」のくだり。私は即座に主人公の「僕」に共感してしまった。そう、私も少なからず一人っ子の辛酸を嘗めてきたからだ。
 一人っ子が「両親に甘やかされ、ひ弱で、おそろしくわがままなのは揺るぎない定説」であり、そして彼らのステレオタイプな反応が「僕」をうんざりさせ、傷つけた―。
 私は「傷つけられた」とまでは思わないが、一人っ子であることへのコンプレックスはずっと抱いてきた。「お兄さんかお姉さんいるの?」「弟、妹はいるの?」こう尋ねられたときの不快感たらない。
 私の子供時代も一人っ子は非常に少なかったので、ひと回り上の村上春樹の世代では、周囲の一人っ子への有形無形の圧力は私の比ではなかったろう。
 そして主人公の「僕」が一人っ子であることの精神性は、この物語の展開に重要な影を落としているのは間違いなく、私は本作を一種の “一人っ子の精神構造を考察” した小説だとも思っている(村上春樹の主人公なんていつもこんな感じだよ、といわれると、私は他に『風の歌を聴け』しか読んでいないので困ってしまうのだが)。

 その一人っ子である「僕」は12歳のときに「島本さん」と出会い、恋に落ちる。島本さんは「僕」が小学校の六年間で出会った「たったひとりの一人っ子」だった。
 彼女は小児マヒのせいで左足をひきずる転校生。こんなプロフィールの女の子がクラスに転校してきたら、多分、私も木を気を惹かれるに違いない。
 その島本さんとの12歳の原体験の心地良いエピソードに、一人っ子である共感意識があって、それに私が呼応したのは確かだろう。
 もちろん「僕」は私とは違う。人生観も違えば、経歴もまるで違う。しかしこの「僕」に兄や妹がいる設定だとしたら物語の見方は随分と違ってくるはずだ。
 そもそも村上春樹文学の特質なのだろうが12歳の少年が異性と手が触れただけで「~僕はその十秒のほどのあいだ、自分が完璧な小さな鳥になったような気がした。僕は空を飛んで、風を感じることができた。空の高みから遠くの風景を見ることができた。」などと感じることなどあるだろうか。私だったら単に自分に一瞬訪れた性的な興奮にドギマギするだけに違いない。小学六年にもなればきっとそうなる。
 そんなことも含めて「僕」は客観的には嫌な奴であり、とんでもない奴でもあるのだが、一人っ子ならそういうこともあるかもしれないと思ってしまう。いやはや一人っ子同士の共感がここまで突出したものであったことに我ながら驚き、呆れ、苦笑してしまう。

 村上春樹を愛読している知人に言わせると『国境の南、太陽の西』はかなり読みやすい小説なのだそうだ。確かに島本さんの半生こそ最後まで謎のままだが、読み物としてそれなりに起伏に富んでおり、行動と心情がほど良く折り重なって、どこか通俗的であるのですんなりとページをめくることができる。
 このタイトルから想起される広大な異国の大陸が舞台ではなく、東京を中心に石川県のどこかの川と箱根くらいの場面転換だったことにも安堵する。異国の話は嫌いではないが、必然的に情景描写がかさ増しされるのでページをめくるペースが停滞しがちとなるからだ。

 島本さんの他に「僕」と絡む女たち。高校時代のガールフレンドのイズミと、初体験の相手であり「彼女」とアイコンで呼ばれるイズミの従姉、そして妻の有紀子。この小説にはそこそこの頻度で性描写が出てくるが、強烈だったのは島本さんとの箱根の別荘での一夜だ。
 それは、まるで官能小説のようでもあるし、行為そのものとは別にお互いの気持ちが時間とともに純化されていく
イメージもあり、村上文学の持つ魔力なのだろうが、私がこれを純愛小説だと思った所以もそこにあった。
 しかしリアルを感じることはできなかった。これをリアルだとするには「僕」はあまりにも饒舌すぎた。「僕」が物語の語り手である以上、必然的に饒舌となるのは仕方がないが、この饒舌が「僕」を袋小路に追い込んでいくのでは少し救われない気持ちになる。そう、西の地平線に沈む太陽を追いかけて息絶えるシベリアの農夫のように。

 この後「僕」が妻や娘たちとの暮らしに折り合いをつけ、生まれ変わることが出来るのかどうかわからない。ただ、そう悪いことにはならないのではないかと感じている。



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