◎アサッテの人

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◎アサッテの人
諏訪哲史
「文藝春秋」九月特別号


【「ポンパ!」突如失踪してしまった叔父が発する奇声!アパートに残された、叔父の荷物を引き取りに行った主人公は、そこで叔父の残した日記を見つける。】

 第137回芥川賞受賞の諏訪哲司『アサッテの人』を全文掲載した文藝春秋を買ってから半年も放置していた。途中、何度か読み始めては中断し、また最初から読んでは…の繰り返しだった。
 一気に読もうと思えば半日もかからない文量なのだが、なにせ「作為をことさら回避せんとして自ら作為に囚われる態の、これぞ典型的な『前衛』の轍でないか」などという表現にぶつかると、はて、それはどういう意味なのだろう?と考えてしまい遅々としてページが進まない。
 『アサッテの人』は小説として用いる言葉の意味、表現を追求した作品である。よって、前述した文章などをそれこそ「典型」として、作者は洪水のような饒舌さであらゆる言葉と格闘している。それを受け入れるこちらにスペックが備わっていないのが、ことさらに読書をつらいものにしてしまったようで情けない限り。

 かつて吃音に悩み、文学に傾斜しながら、時おり意味不明な言語を発する男が失踪する。
 甥である小説家の「私」がその叔父と事故で死亡したその妻の日記をもとに、叔父を主人公に小説を編んでいくという重層的なストーリーなのだが、そこに明確な物語があるわけでもない。

 本書を読んでいる途中の私の気分は決して晴れ晴れしいものではなかった。
小説家が文章を編んでいくということは凄まじい労力と脳神経を消耗させるものなのだろうが、それをドキュメンタリーとして投げ出すのはいいとしても、叔父の苦悩が作者の苦悩とシンクロしていく構成の随所に作者の反省が織り込まれ、それが潔く思えなかったというのがある。
 まず作者が「小説にまつわる行為や欺瞞を極力避けたかった」ために「尻つぼみに終わるとわかっている」「カタルシスはもたらされない」「座りの悪さを読者に共有してもらうことは気が引けるが」などと注釈することがそもそも欺瞞なのではなかったか。
 さらに「六年前までの私なら」という言い訳のうえで加筆の可能性として別の構成をバラしていく手法もいかがなものだろうか。とにかく読書中はこれらのことが気になって仕方がなかった。

 ただ、この小説にあるような叔父や「私」のように豊富な語彙の持ち主であればあるほど精神状態が病んだときに、語彙の数ほど迷路を作る壁を増やすものなのだろうと思い至ったときに、この小説のもつ別の側面も見えてきた。
 主人公の叔父は「ポンパ」「チリパッハ」「ホエミャウ」「タポンテュー」などという意味不明の奇声を発する癖があり、その言葉が発声された瞬間を小説では「アサッテ」と名付けているのだが、その言語の出典と意味を必死になって探りながら、折り合いをつけようとする亡妻の日記は平仄のチャートまでつける徹底ぶりに、その奇声の創作具合から思わず筒井康隆的世界が頭に浮かんでしまい、もしかしたら『アサッテの人』はシュール&ナンセンスコメディの側面もあるのかも知れないなどと思ってしまった。。
 ならば叔父が共感する無人のエレベーターの中でパフォーマンスを展開する「チューリップ男」の描写などは、もっと笑うべきだったのか。そう思うと、もっと引いた目で『アサッテの人』と対峙するべきだったと後悔もするのだが、未熟な本読みは芥川賞というだけで真面目に読みすぎてしまったようである。


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