◎64 ロクヨン
◎64 ロクヨン
横山秀夫
文藝春秋
「警察職員二十六万人、それぞれに持ち場があります。刑事など一握り。大半は光の当たらない縁の下の仕事です。神の手は持っていない。それでも誇りは持っている。一人ひとりが日々矜持をもって職務を果たさねば、こんなにも巨大な組織が回っていくはずがない。」
事件が勃発して警察が乗り出す。そんなルーティンを横山秀夫は踏襲しない。
“事件”はあらかじめ警察官の心の中にある。横山秀夫の警察小説の流儀について説明しても仕方がないだろうが、警察小説の第一人者といわれながら、主役は犯人を追いつめ難事件を解決する殺人課の刑事ではない。
家出した娘。三上が身元不明の遺体を訪ねるところから物語が始まる。いきなりの導入にたじろぎながら、横山秀夫はまるで短編小説を書くような密度で物語を進めていく。
なにせ647ページのボリュームだ。この長さを横山秀夫は短距離走者のように駆け抜けるつもりなのか!
【昭和64年。昼過ぎに自宅を出た少女は、近くの親類宅に向かう途中、忽然と姿を消した。身代金2千万円を奪われ、少女は無残な死体で発見される…。このD県警史上最悪の誘拐殺人事件をめぐり、刑事部と警務部が全面戦争に突入。狭間に落ちた広報官・三上義信は己の真を問われる。】
「超弩級!」647ページを読み終えた瞬間の感想だった。
また「重厚長大」だとも思った。「重厚長大」とは経済用語だそうで、必ずしもほめ言葉ばかりではないらしいが、この熟語のもつ無骨さ、頑健さこそが横山秀夫の7年ぶりの新作『64ロクヨン』のイメージそのものではなかったか。
とにかく筆圧の強さというか、濃度たるや半端ではなく、またぞろ地方警察本部の内紛劇を描きながら、これでもかと押し込んで来る圧力に作家の気力と忍耐も窺え、読む側は知力よりも体力が試されるような気分に陥るのではないか。
ありきたりにいってしまえば「面白い」の一言なのだが、下手に賛辞を書き連ねると軽くなる。これだけ軽さとは無縁の警察小説もない。まさに横山秀夫の独壇場だろう。
この物語に出てくる登場人物たちの殆どが何物(者)かと闘っている。警察本部内部のセクショナリズムと闘い、ヒエラルキーと闘い、マスメディアと闘い、一方メディアは警察と対決する。女だって男社会の中で健気に闘いを挑む。組織対組織、組織対個人、個人対個人、組織対事件、個人対事件。そして自分自身の心にも容赦のない闘いを模索している。
そこに非道な犯罪が描かれば、我々は事件解決と犯人逮捕を目指して警察と伴走できる。少なくとも読者のベクトルはそれを目指すはずなのだが、しかし刑務部と刑事部の内部抗争や、警察広報部とマスメディアとの主導権争いの大消耗戦に対して、読者の行き場は限りなく迷走していくのではないか。
そんなものはうんざりだ。どちらに軍配が上がろうがどうでもいい、勝手に消耗して自滅してくれと思う瞬間が幾度も訪れる。
所詮、三上が語るように「世間の目はドライで冷徹だ。警察を、民間と少しも変わらぬ五欲に塗れた組織であると見切っている。現代人が警察に求めているのは正義でも親しみやすさでもなく、安全を担保する“機械”としての役割だ。自分と家族の生活圏から速やかに危険を排除してくれる高性能の機械をただ欲している」に過ぎない。
恫喝、狡猾、集団ヒステリーが矢継ぎ早に繰り出される様はもはや末期症状ではないか。警察も腐っているがマスメディアも腐っている。そもそも横山秀夫は何故、内向きの抗争ばかりを描き続けているのか。
それでも思う。何でこんなに面白いのだろうか、と。アドレナリン全開で闘争する者たちの熱気に煽られたとでもいうのだろうか。
答えは明白だ。彼らは己の矜持に向かって闘い続けている。それぞれの闘いに手段はない、しかし目的に義はある。刑事部には刑事部の義があり、刑務部には刑務部の義がある。匿名に猛烈に抗議する記者クラブにまったく正義は感じないが、実名を勝ち取るのだという義は理解できる。匿名が隠蔽がらみというのはまったく馬鹿野郎な話でも、組織維持のため必死で闘う広報官にも義はあるのだろう。
義があるからこそ感情移入が生まれる。行き着くところは人間が根源的に抱える喜劇性だといってもいい。
登場人物たちが権威を振りかざせばかざすほど喜劇は加速していく。この小説の面白さはまさにそこにある。
その人間喜劇の渦中で主人公の三上広報官の状況は混迷する。行方不明となった娘、憔悴しきった妻の顔が何度もちらついては、職務の鎧を身に着けてマスメディアと対決し、刑務と刑事の二重国籍の狭間で苦悶する。
「二重国籍、いや無国籍の人間が祖国愛を論じろと迫られたらこんな気持ちになるか」
そんな三上の自問自答が強烈に胸に迫ってくるのは、横山秀夫が仕掛ける数々のエピソードの迫真性に他ならない。
まったくこの作家をシチュエーションの特異さだけで論じてはならない。その描写力と心理描写の描き込みの筆力は天下一品なのだ。
その描写の迫真性は記者会見が騒然となるたびに発揮され、部長室などの密室での攻防も息詰まる場面を創造していくのだが、何といっても突如として展開される誘拐現場の臨場で巨大なクライマックスを迎えていく。
-------この車は今、ロクヨンの捜査指揮を執っている。
指揮官の台詞が目に飛び込んだときには思わずのげぞった。この小説に謎などないと思い込んでいた。ミステリーではなく抗争劇だと思っていたからだ。
そうだった。今までも短編でさえ横山作品は突然と変調して、怒涛の転換を見せたのだった。しかしこの『64ロクヨン』での転換はあまりにも凄すぎた。
そして激しい怒号が交錯した物語は独り静かに佇んでいた老人の執念が明かされるのだ。凄いな横山。
私は今まで『動機』や『深追い』『真相』といった短編はラジオドラマで聴きたいと思い、『震度〇』は舞台劇として観たいと思ったものだが、この『64ロクヨン』だけは映画館でじっくりと味わいたいと願わずにはいらいられない。
いや、別に『64ロクヨン』の映画化を望んでいるという意味ではないが。
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