◎陰の季節

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◎陰の季節
横山秀夫
文春文庫


【警察一家の要となる人事担当の二渡真治は、天下り先ポストに固執する大物OBの説得にあたる。にべもなく撥ねつけられた二渡が周囲を探るうち、ある未解決事件が浮かび上がってきた…。】

 まず読み始めて “D県警察本部” という表記が気になった。これは当然、架空の物語だが、場所や団体名をABC表記することがどうにも馴染めない。確かにある意味で『陰の季節』は警察組織の暗部を描いた作品であり、具体的に警視庁や神奈川県警という実名称を差し控えたいという事情はあるのだろう。
 しかし、同じく警察の不祥事を描いた佐々木譲は北海道警察であることで作品に意味を持たすことに成功した例もあり、今野敏の『隠蔽捜査』にしても警察庁から警視庁大森署という実在の名称を用いることで架空の話であっても、一応のリアリティを醸し出していたと思うのだ。別にセブンイレブンやマクドナルドなどはコンビニエンス、ハンバーガーショップでよいと思うのだが、横山作品の舞台がどこかの地方都市であることはわかるものの、所轄署ですらS署、Q署と記号表記とする意味があるものかどうか。そもそもQ署では何の略だかわからないし、D県では該当する県もないではないか。もし『陰の季節』がSF小説というのならばわからないでもないが、あくまでも警察小説なのだ。
 もともと警察小説はある種の風俗小説として、街そのもののリアルな描写は不可欠なはずではある。
 鮫島が新宿という風景に紛れることで『新宿鮫』という世界観が構築され、その街に巣食うヤクザや水商売の人たちが織りなす人間模様がドラマとなる。だから鮫島が新宿を飛び出して架空の町で行き場を失ったような『灰夜 新宿鮫Ⅶ』は私には読んでいて辛かった。刑事は街の中を泳ぎ、読者は街に流れる匂いを感じて主人公に伴走していくものだと思っているからだ。
 ところがハタと気がついたのが、横山秀夫は『陰の季節』で少しも街を描いていないことだった。酒場がありラブホテルがあって、それらしい繁華街は出て来てもそれはあくまでも抽象としての繁華街に過ぎない。それは何故なのかといえば話は簡単。『陰の季節』は街を具体的に描く必要がないからだった。
 この警察小説には刑事も捜査官も直接は物語の背景でしかなく、この作品に収められた四篇の連作短編で描かれている警察官たちの所属は警務課の人事係であったり、観察官であったり秘書課であったと、どれも事件捜査とは無関係な管理部門の警察官たちの姿を描いている。そうなるとむしろ警視庁新宿署などという実在の固有名詞が出てくると逆に違和感が出てしまうのかもしれない。このことは本当に驚きだった。
 その意味では警察小説ではなく企業小説という色合いが強くなるのだが、警察機構という完全ピラミッド型の階級社会であれば、内部で蠢く暗闘は一般企業の比ではないだろう。
 
 そういえば私にはずっと昔から不思議に思っていたことがある。
 冤罪事件が起こると必ず警察側の証拠のでっちあげや供述調書の誘導、自白の強要などの不祥事が取り沙汰されるが、誤認逮捕によって取り逃がしてしまった真犯人がどこかに生きているという事実に対して、何故、捜査官が無頓着でいられるのだろうという疑問だ。
 警察ならずとも人間には社会正義というものがあるはずで、何が何でも犯人に仕立てて有罪に持ち込もうとする力学はどこから発生するのか不可解でならなかったのだ。
 しかしこうして横山秀夫の小説を読んでいると不可解の一端が垣間見えて来る。
 容疑者を挙げて送検する仕事に警察組織の上から下まで様々な思惑が交錯する。ここに賞罰や異動、人事が絡み、単なる面子以上の何かが動く。この小説は直接、冤罪事件を描いたエピソードがあるわけではないが、警察内部の暗闘が重厚に描かれていく。

 表題作の『陰の季節』では人事を描く。退官する防犯部長の天下り先のポストを巡ってトラブルが発生する。これが現役警官の人事ではなく、OBの再就職であることに警察機構の根深い業を感じざるを得ない。
 「警察組織はどの組織とも違う、完璧なムラ社会だ。警察学校の門を潜った瞬間に産声を上げ、組織とともに生き、死ぬまで組織と縁が切れない。退官しても、警察官でなくなるだけで、警察人であることに変わりがないのだ。」と横山秀夫はいう。
 このエピソードの主人公である二渡はそこで人事のイレギュラーに遭遇する。私は二渡のような立場になったことはないが、そのストレスや相当なものだろうということは想像が出来る。ましてや大物OBが絡む人事となると上層部は腰が引けるだろうから、一身に責任を浴びることになる。
 
 続く『地の声』も強烈だった。
 監察官という警察官の風紀、規定を監視するという任務。これは警察という権力組織を内部から監視する意味で絶対必要不可欠なポジションに違いないが、日頃、深夜の雨の中でも事件捜査に奔走し、辛抱強く聞き込みで廻る現場の捜査官の目に、身内を取り締まる監察官がどう映っているのだろう。監察官の新堂も自分の立場が現場から忌み嫌われていることは自覚せざるを得ないのだ。
 獅子身中の虫を洗い出すと簡単にいうが、現場捜査官たちのような事件解決の達成感はゼロであるに違いない。
 内部から告発された警察官に内偵をかけていくのは当然として、匿名で告発した人間も洗い出していかなければならない。匿名の内通者は観察が不調だと見るや今度はマスコミに内部リークする恐れがあるからだ。
 横山は新堂による内部告発された警部の身辺調査と、匿名の告発者を暴いていく姿を描いていくのだが、当然のことながら新堂自身もまた人事の二渡の監視に晒されているわけなので、ここでの失態が昇進に関わってくるという切羽詰まった状況に追い込んでいき、しかも「事件」は思わぬ方向で収束していく。
 このどんでん返しはあまりにも哀れであり悲しい結末を迎えて新堂のストレスから半分切除した胃がまた激しく痛み出すのだが、読んでいるこちらも閉塞感に胃が重くなるほどの説得力だった。

 乃南アサの『凍える牙』の一節には「常に危険と隣り合わせ、仕事もきつい。人間の暗部ばかりを見せられ、時間的にも不規則。咄嗟の判断力、行動力が要求される仕事であり、体力的に劣り、本能的に闘争心の弱い女には無理」と著されているが、収録された『黒い線』は警務部の婦警担当係長の七尾友子が主人公だ。
 今は婦警といわず女性警官(女警)というらしいが、どちらにしても警察という完全男社会にあって女警が捜査の第一線に出ていくことに大変な困難がつきまとうもので、鑑識課で被疑者の似顔絵を担当している若い女警、平野瑞穂が連絡を絶って失踪したことから「事件」は始まる。
 給与面で男女の差別のない公務員は女の仕事としては厚遇されているのかもしれないが、友子のように「警察という男の聖域に身を投じて二十五年。婦警の敵は、内なる弱き感情である」ことを自覚しているベテラン警部は、婦警担当係長という立場から男社会に身を晒す若い女警の管理、保護する立場で、あらぬストレスに見舞われることになる。あからさまに女警不要論を広言する警務部長を始め、署内の空気から彼女たちを守らなければならない。
 「真夜中だって嫌な顔一つせず現場に飛んだ。重い機材を率先して担いだ。道端で用を足す班員たちを横目に、下腹を押さえながら足跡に石膏を流し続けた。愚痴も弱音も一度も吐かなかった。なのに、女だと言われた。女は使えない、と」
 警察組織の中で捜査畑ではない警務や監察の担当者たちが疎ましく思われるのも確かだろうが、それ以前に性別は絶対的な差別を生み出す。
 女であることのことの内実を横山秀夫はよく描いたと思う。『黒い線』はそれでも唯一、救済の後味が残された。
 この段階で横山秀夫が平野瑞穂で連作を書こうとしたのかは不明だが、結果的としてこの短編の後味が『顔 FACE』を産み出していくことになる。


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