◎阪急電車

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◎阪急電車
有川 浩
幻冬舎文庫


 私の読者は物語本が殆どだ。どれほどご高説ご立派な評論よりも創作の力こそ偉大だと信じているからだ。
 手に取った有川浩『阪急電車』という小説。文庫化されたのが今夏で、奥付を見るとそこそこ版を重ねている。一読して、これは売れるはずだと思った。この小説には創作の力、フィクションの魅力が全席、全車両にぎっしりと詰まっている。

 【隣に座った女性は、よく行く図書館で見かけるあの人だった…。片道わずか15分のローカル線で起きる小さな奇跡の数々。乗り合わせただけの乗客の人生が少しずつ交差し、やがて希望の物語が紡がれる。恋の始まり、別れの兆し、途中下車―人数分のドラマを乗せた電車はどこまでもは続かない線路を走っていく。】

 「西武電車も真っ黄色や~!」。関西人の「○○電車」という呼び方を初めて聞いたのは1985年にタイガースが日本一を決め、祭りの場と化した所沢からの西武線車内だった。関東では私鉄路線にそんな呼び方はしないので何とも奇異な感じを覚えたが、その後、大阪に行ったとき、梅田駅の案内板に「阪急電車」「阪神電車」と表示されているのを見て、単なる言い回しでないことを知った。
 確かに小説のタイトルとして『阪急電車』といわれれば、なるほど文学的だなと思う。『東急電鉄』『西武鉄道』『京浜急行』では沿線のガイドブックのようで何とも味気ない。

 阪急の沿線には父親の仕事の関係で六歳の時と万博の時、社宅に一ヶ月間滞在したことがある。あの頃の阪急電車も小豆色のカラーだった。
 阪急電車で強烈に憶えているのが、車窓いっぱいに広がる西宮球場。あれは間違いなく幼き日の原風景だ。だから阪急電車という響きにはほんの僅かながら懐かしさがある。いつかその懐かしさを求めて、のんびり沿線の景色でも楽しみたいと思っているのだが、阪神には乗っても阪急とはすっかりご無沙汰になってしまった。記憶が正しければ最後に乗ったのは今津にある「居酒屋・虎」で大将に請われるままカラオケでたかじんの『東京』を熱唱した帰り、阪神と間違えて乗ってしまったとき以来。もう16年前になる。

 『阪急電車』は、阪急今津線の宝塚駅から西宮北口駅までの片道15分8駅の間に乗り降りする乗客の何人かをクローズアップし、それぞれが抱える人生を綴る物語。
 その意味ではグランドホテル形式のようでいて、様々な人生の曲線が阪急今津線の車両で交差する瞬間に生まれるドラマを紡いだ作品だともいえる。
 公共の交通機関で見知らぬ他人同士が乗り合わせることなど至極日常の風景なのだが、ひとりの乗客にスポットをあて、別のスポットを当てた人物と交差させる瞬間はまるで奇跡なのではないかと思えるほどの鮮やかさで、日常の中の偶然を奇跡にまで消化させてしまった有川浩という作家の筆力の賜物だろう。そう思うと乗客から顰蹙を買うお騒がせなオバサン集団ですらドラマの接点を演出した功績を称えてあげたくなるではないか。

 筆力といえば、有川浩の名前は「本屋大賞」のときに見かけ、“自衛隊三部作”を書いた作家という知識しかなかった。なにせこの名前にして自衛隊ときたものだから、この人が女性であるという事実を知らないままに完読してしまった。それだけにこの小説に出てくる女性たちの描写には驚かされっ放しだった。いや「いい女」を見事に書き込める男性作家は少なくないのだろうが、この小説の女性たちが批評する女性観のあまりの鋭さに面食ってしまったのだ。
 婚約者を寝取られた翔子が、新婦に向ける眼差しの容赦のなさ加減もさることながら、小学校低学年の少女たちを「こんな年でも少女たちはもう女だった。卑しく、優柔不断で、また誇り高い。あんな幼い、小さなコミュニティの中に、既に様々な女がいた」として、翔子は少女たちと女の部分で対決する。こんな描写をものにする男性作家など私の知る限りは存在しない。だから有川浩(ひろ)が女性作家だったことを知ったときには「なぁんだ」と思うよりもむしろ安心してしまった。
 それは翔子のボキャブラリーの鋭さもさることながら、時枝おばあちゃんが純白のドレス姿の翔子を見て、「討ち入りは成功したの?」と訊ねる大胆さ、そして白が花嫁だけの色ではなく、牛の刻参りや仇討ちも白装束であり、祝いも呪いも恨みも呑み込む色だと補足を添えていく怖さ。とても女性であるから女の描写に長けているという単純な話ではない。

 もちろん『阪急電車』の本質は、すべてが鈍行であるのんびりとした今津線と同様にのんびりとしたハートフルな物語ではある。三組の若いカップルのエピソードなど思わず二十歳代を追体験したくなるほど甘酸っぱい思いにさせられた。
 しかし一度返り血を浴び、言葉を吐血にしてとことん思いをぶちまけた翔子だからこそ、時枝と言葉を交わしたことが癒しへの道案内となり、勧められて下車した小林駅の構内でツバメの巣を発見し、小学生の七夕飾りを見つけることができたのではないか。
 ドレスをゴミ箱に投げ、武装という化粧をクレンジングで落とした翔子が清々しい気分で次のステージに向うように、停車する駅には悲しいドラマがあっても次の駅では嬉しいドラマが待っているものかもしれない。
 そう舞台は同じ場所にとどまらず常に移動しているのだ。『阪急電車』の素晴らしさは作家の筆力、描写力に負うところが大きい。

 この小説には主演女優賞候補が何人も出てくる。そして驚くべきことにヒロインは阪急電車で別のヒロインと出会うことで魅力を増していく。
 ひとりの物語が別の物語とリンクしていく手法を、今や伊坂幸太郎を読むたびに味わっているのだが、『阪急電車』の場合はリンクすることによる相乗効果が半端ではない。
 女子大生のミサは、この電車の行き帰りのうちに大きく成長してみせる。見栄えがいいだけのしょーもない彼氏となかなか別れられず、暴力にも我慢していたような彼女は、仁川駅で辛い目にあう段階では駄目な女の典型に過ぎないが、時枝の「やめておけば?苦労するわよ」のひと言に触れた途端、典型からミサというパーソナリティを鮮明にしていく。何故か読む者の「ガンバレ」という思いが募りはじめ、やがて(男の読者なのに)ミサに共感していく。
 もしかすると甲東園駅で乗り込んだえっちゃんを中心とした女子高校生集団の馬鹿話は、ミサの耳を借りて聞こえてきたので笑うことが出来るのではないだろうか。ミサが吹き出すのを必死に堪えることで、我々もえっちゃんの話に思わず引き込まれてしまう。そうでなければ、私など他の乗客同様に女子高校生のかまびつしさに眉をひそめている口かもしれない。
 そして、物語はそのえっちゃんこと悦子のちょっと切ないエピソードへとリンクして、相乗効果をたかめていく。そんな具合に阪急電車は加速していく。

 この物語は朝晩の通勤通学時間のラッシュを避けた、わりとのんびりとした時間帯の物語なので、車内の風景も牧歌的ではある。正直いえば「おばあちゃんと孫」「若いカップル」「女子高校生」「ブランド好きのおばさん」の他に疲れきった営業マンやお父さんたちの話も欲しい気はした。主演女優賞候補は多いが、男はみんな助演止まりだ。そう思うと西宮北口駅の階段を走り去った、しけたサラリーマンは何者だったのだろうか。
 おそらくその男も本人しか知らない物語を一生懸命に抱えていたのだろう。


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