◎長い長い殺人

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◎長い長い殺人
宮部みゆき
光文社文庫


 さて、読書感想文を書き始めてほぼ三年、このページにようやく宮部みゆきを迎える。彼女と高村薫には読書と疎遠になっていた頃の生活習慣の中で、再び小説を読むことの楽しさに目覚めさせてもらった。このページを持つきっかけをくれたといってもいい。
 とはいえ、私は宮部みゆきの著作は『火車』『理由』『模倣犯』の3冊しか読んでいない。しかしこの3冊が3冊とも超ド級の面白さだった。
 それが何故、【読書道】の三年間で宮部みゆきの著作が出てこなかったのかといえば、私の中では新刊時に読んだ『模倣犯』の余韻が未だに燻り続けており、精力的に宮部みゆきが次々と新作を発表するのを横目で見ながら、文庫が中心の読書に何となくタイミングのずれを感じていたからだ。このたび読書機会を得たのも本を譲ってもらったからに他ならない。

 【金は天下のまわりもの。財布の中で現金は、きれいな金も汚ない金も、みな同じ顔をして収まっている。しかし、財布の気持ちになれば、話は別だ。刑事の財布、強請屋の財布、探偵の財布、死者の財布から犯人の財布まで、十個の財布が物語る持ち主の行動、現金の動きが、意表をついた重大事件をあぶりだす!】

 最初に「何故、財布なんだ」と思った。なるほどシャツやズボンはよく着替えるし、靴も装飾品もそう。人が行動するときに絶対に肌身離さずにしているのが“財布”。もし財布に人格があるとすれば、男女の区別なく家族の誰よりも持ち主のことを知り尽くしている筈で、そこで十個の財布があれば十通りの人間ドラマが出来るばかりではなく、そこにミステリーの妙味が生まれるはずだと宮部みゆきは考えたわけだ。
 十人十通りの物語となれば、当然十通りの文体の書きわけも可能なわけで、そこに才人の健筆がふるわれたというのがこの小説のキモであるなら、ある意味『長い長い殺人』は宮部みゆきの辣腕を楽しむために成り立った小説ともいえるのだろう。
 そう宮部みゆきは稀代のストーリーテラーなのだと思う。既読が僅かに3作品なので乱暴なことはいえないが、宮部みゆきは高村薫のように心の奥底を泥ごとさらうようなギリギリの神経描写は得意ではないのかもしれないし、ひとつのディティールにとことん拘るタイプでもなさそうな気もする。
 ただ、人物の深層心理を深く掘っていくような文学的な表現を用いない代わりに、せりふや行動から人物の人間性を読者に想像させていく技術が抜群なので、目に見える表層のうわずみだけをすくったような平板な仕上がりには決してならない。物語が停滞していくのを極力避けながら、身を軽くしながら話を次から次へと転がしていく作劇の上手さは当代随一なのではあるまいか。
 しかし一方で本書を読み始めの頃は財布が物語を語っていくという不自由さに加え、断片だけでぶつ切れになる展開が正直きつかった。【読書道】の蓄積によって、苦手だった短編やオムニバスにも面白さを見つけつつあるのだが、先行きが見えない段階で複数の人物たちが伏線を撒きながら入れ替わっていく手法は、受け取り方には個人差もあるだろうが、ひとつひとつが消化されないうちに次の命題を突きつけられていくような不安と心許なさは禁じえなかった。
 それが氷解するのは、短いセンテンスで切っていくハードボイルド調の文体がクスリとさせる「探偵の財布」からなので、そこまで100ページほどの忍耐を強いられたことになる。読み始めた途端に読書世界へと取り込まれていった今までの宮部みゆきの小説からすればかなりのスロースタートだったといえる。本当にこの小説が面白くなりだしたのは、普段は胸ポケットやバッグにしまわれていることが多い財布であるため、“彼ら”が目撃する事件の大半が視界を遮られているというハンディを楽しめるようになってからだろう。ここを乗り越えれば、逆に財布から発する言葉だけで事件が語られていく事実に感嘆してしまう。残りの200ページは一気に読むことが出来た。

 確かにトリックの解明や犯人探しというミステリー本来の醍醐味は薄いという批判はあるのかもしれないし、実際、事件そのものも犯人像も、犯行手口も犯行動機もとってつけたような印象は拭えなかった。稀代のストーリーテラーとしては変化球で読者を楽しませる連作短編を提供するにあたって、必要以上に事件の背景をあえて単純にしたのではないかと思う。劇場型の犯人像ということで三浦事件を彷彿とさせるものの、この犯人像が『模倣犯』の“ピース”へと昇華したのではないかという興味の方が先に立った。残念だと思ったのは、ここに「容疑者の財布」というパートがなかったことだともいえるのだが、ここでそれを掘り下げてしまったら、もしかすればピースの出番はなかったのかもしれない。


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