◎重力ピエロ

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◎重力ピエロ
伊坂幸太郎
新潮文庫


 伊坂幸太郎の小説は好みのものと、そうでもないものとがわりとはっきりする。この評判作については少々苦しい読書だった。
 実際、作品の良し悪し以上に好き嫌いが出てしまいがちな作家なのだが、『重力ピエロ』に関してつらかったのはよもや私に弟がいないからだというのではあるまいか。

 【半分しか血のつながりがない「私」と弟の「春」。春は、私の母親がレイプされたときに身ごもった子である。連続放火事件の現場に残された謎のグラフィティアート。無意味な言葉の羅列に見える落書きは、一体何を意味するのか?キーワードは、放火と落書きと遺伝子のルール。】

 「春が二階から落ちてきた。」という書き出しで始まり、同じフレーズで閉じる437ページの物語。話はなかなか重い。
 「本当に深刻なことは、陽気に伝えるべきなんだよ」という台詞にあるように、深刻な話を例によって伊坂節で軽妙に語るのだが、その軽みが今度はとてつもない違和感となってしまった。
 例えば世界の終わりを三年後に控えた人々の日常を描く『終末のフール』。あれも同じくテーマの深刻さと比べて伊坂節の軽みが生きた作品だったが、逞しく僅かに残された時間を生きようとする主人公たちが時々堪らずに嘔吐する場面に、忍び寄る終末へのプレッシャーを漂わせて、読者に緊張感を忘れさせなかったことを思えば、『重力ピエロ』の軽さは単なる深刻な現実への逃げ道としての役割でしかないのではないか。
 もちろん単位として本作は私と弟と父が織り成す家族の物語であり、『終末のフール』や『オーデュポンの祈り』のような特殊な世界観とは違うのかも知れないが、母親がレイプ魔に犯されて生まれた弟という、兄としては複雑な思いを抱かざる得ない存在に対し、バタイユ、サド、太宰、芥川、ガンジーといった膨大な引用で煙に巻かれた印象が残ってしまうのだ。
 それは謎解きの暗号となる遺伝子記号の件も同じで、遺伝子にまつわる余談はそれなりに楽しいのだが、遺伝子記号で壁の落書きと放火事件の相関関係を地図に書いてそれを広げられ、事件の真相はこうだといわれてもピンとこない。
 そもそも誰かをおびき寄せる手段としての放火というのが苦しかったのではないか。だから少なくともミステリーとして読んではならない。

 確かに類人猿のセックスについての兄弟のディスカッションなどは読んでいて楽しくはある。
 「人間の賢さは人間にためにしか役立っていない」などはなかなか唸らせる台詞だ。
 しかし、こんな具合に伊坂幸太郎が引用を多用して薀蓄を傾けてくるのにはすっかり慣れてしまった反面、本来、『重力ピエロ』はもっとストレートな兄弟の葛藤のドラマになるべきではなかったのかという思いがある。
 これが伊坂のオリジナリティといってしまえばその通りなのだが、例えば春が実際の父親である葛城に対して、「赤の他人が父親面するんじゃねぇよ」という台詞など、本来ならば聞かせどころなのだろうが、この作品では妙に平凡に聞こえてしまう。
 だから、このモチーフで別の作家が書いたらどんな作品になるのだろうかなどと思ってしまう。とくに誰というのは思いつかないのだが、東野圭吾あたりならばどうだっただろう。

 泥棒でありながら探偵である黒澤を登場させたのもどうだったのか。
 『フィッシュ・ストーリー』や『ラッシュライフ』という寓話的なストーリーの中で黒澤はいいキャラクターだったが、この作品に出てきてしまうと、現在の放火事件も過去のレイプ事件も、この作品の中で存在しているはずの現実が一気に“何でもあり”になってしまう。黒澤というキャラクターは黒澤として完結してしまっているので、どんな物語に対しても黒澤としてのみ存在してしまうのだ。
 主人公の「私」は黒澤とこんなやりとりをする。

「探偵というからには、助手や事務員はいるんですか?」
「仕事は一人でやるものだ」
「ビートルズは四人でやってましたよ」
「だから解散しただろ。ボブ・デュランは永遠に解散しないぞ」

 時々、黒澤は場面を持っていってしまうので困るのだ。伊坂作品には過去、特殊な才能を持つキャラクターが何人も登場した。それが殺し屋であったり、喋れる案山子であったり、死神であったり、結局、黒澤であったりするのだが、弟の春がこれらと同一のカテゴリーの中にいること自体がどうしても好きにはなれない。
 特殊能力者では家族の話にはならないし、「赤の他人が父親面するんじゃねぇよ」なんて台詞はとても似合わないはずだ。
 春は父の本が50音順に並んでいないのが気に入らず、数日かけて直したり、 年賀状の番号を小さい方から並べることにこだわったり、横断歩道の白い部分と黒い部分が等しくならないとパニックを起こしたりする。兄からすれば可愛い弟として描かれているのだが、やはり自分と違う遺伝子を持つ者として畏怖すべき存在ではある。
 その畏怖が強すぎて春が特殊な人間たちの中に埋没してしまったことが残念でならない。


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