◎走れ!タカハシ

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◎走れ!タカハシ
村上 龍
講談社文庫


 この短編集は去年、地元の古書店のワゴンから3冊250円のセットで購入していたものを、ぼちぼち先月あたりから読み始めていて、これがあまりも面白く読めるものだからこの作家に興味が湧いて、もっと本質の部分で村上龍を知りたく思い、短編集であることを幸いに一旦本を閉じて、デビュー作『限りなく透明に近いブルー』に切り替えたという経過は前項で記したのだけれど、その後に飲み会があって帰宅電車の中でどうやらこの本を電車に忘れたらしく、紛失状態のまま時間ばかりが過ぎて今に至ってしまい、もともとワゴンで買った本だから惜しくはないのだけど、ヌメ革のブックカバーごと無くなったのは痛かったし、いざブックオフの105円コーナーで買い直そうと思ったら、当代随一の人気作家であるにも関わらず、なかなか在庫がなくて苦労してしまったのです。
 と、こんな感じで吉本ばなな風の一人称スタイルで長々と<余談>をまとめてみた。文庫版『走れ!タカハシ』の巻末の解説を吉本ばななで読んだ直後なので影響されてしまったようだ。
 結局、古書店でこの本を見つけることが出来ず、結局、職場近くの豊島区図書館の会員に登録し、借りることにした。

 【ヨシヒコが走るとき、何かが始まり何かが終わる。広島カープ高橋慶彦遊撃手の輝ける肉体を軸に、野球を楽しむ普通の人々を配した11のエピソード】

 村上龍がこの短編集を雑誌に連載していたのが昭和五十八年というから31歳のとき。
 『限りなく透明に近いブルー』から8年後のことになる。『走れ!タカハシ』とはとても同じ作家のものとは思えないほど作風も表現も違うのだが、これを8年の蓄積による円熟であると簡単に書いてしまってよいものかどうか、その間の著作にまったく触れていないのでいい加減なことはいえないのだが、もともとこれくらいの振り幅は引き出しの内なのではないかと思う。こういういい方は好きではないが、この人は天才ではないかと思い始めている。
 さらに昭和五十八年というと広島カープがとにかく強く、翌年には三度目の日本一に輝いている。村上龍はそのカープ全盛時代の中心選手だった高橋慶彦内野手を各短編のエピソードに登場させ、あとがきに曰く「ファーストベースにヘッドスライディングしてもそれが様になる日本でも珍しいプロ野球選手」と絶賛しながら「僕としては珍しく、普通の人々を主人公に選び、軽快なスポーツ小説を書いた」ということになる。
 狂言回しのように登場する高橋慶彦はそのたびに妙な可笑しみを誘う。これが「普通の人々」や「軽快なスポーツ小説」であるのかはともかく、読んだ者の誰もが高橋慶彦のファンになってしまうのは確実であり、そのことがこの小説にとっては、とても重要なことなのではないかと思っている。(個人的には我が阪神タイガースに移籍したときの高橋慶彦には失望させられたが)
 さらに著者あとがきから引用すると村上龍は「優れたスポーツ選手はただ見ているだけで美しく、彼の生まれや育ち、家庭問題やスキャンダルや国籍やイデオロギーは、肉体の輝きの前に消えてしまう」とあり、その高橋慶彦の美しさや輝きが、その対極にあるような各編のどうしようもない主人公たちのどうしようもない日常に、突然降臨して眩いばかりの光を放っていく瞬間が実に鮮やかで、なるほどその意味では随分と捻くれていはいるが、この短編集は正しい“スポーツ小説”なのかもしれない。
 
 11のエピソードはどれも面白く、奇跡的に凡作が一編もない。あまりにも面白かったので、備忘録ではないが、その11人の主人公たちを羅列しておきたい。何せ、この文庫本は図書館に返却しなければならない。

 女の子の部屋に侵入された所を父親に見られ、損害賠償の恐怖に怯える球場の売り子。客として寝たおばさんに囲われる羽目になりそうな17歳のコールボーイ。童貞を卒業した同級生が羨ましくて仕方がない高校生。訴訟のピンチに立たされ、それを回避しようと奔走するTVデレクター。女好きの落ちぶれたテニスプレーヤー。世の中から疎外され、狂気に走る殺人者。普通の女性との恋に苦悩する売れなくなったタレント。寝んごろになったバーのママのかつてのチームメイトたちと一夜を明かす男。自分の偽者と無為な恋の競争をする小説家。失業を機にゲイボーイになった中年男。周囲の評価と自身のギャップにストレスを溜め込んでいる少年。

 『限りなく透明に近いブルー』が主体性を一切廃した文学ならば、『走れ!タカハシ』の主人公たちは何とも痛く、生々しくも愛しさに溢れている。そんな男たちに高橋慶彦がどう絡んでいくのか…この拙い感想文でも「読んでみようか」と思った方がいるならば、ぜひ、そこを楽しみにしてもらいたい。


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