◎終の住処
◎終の住処
磯崎憲一郎
「文藝春秋」九月特別号
季節の恒例になってしまったが第141回芥川賞受賞作品を、全文掲載した「文藝春秋」誌上で読む。たかだか二段組46ページ、一気に読んでしまった。
一気に読んでしまったのは間違いないのだが、正直いえばよく理解しないままにページだけをめくってしまったという感じがする。というのもこの小説の手法が物語文学として体を成しているものかどうか、ずっとわからなかったのだ。
【三十を過ぎて結婚した男女の遠く隔たったままの歳月。日常の細部に宿る不可思議。過ぎ去った時間の侵しがたい磐石さ。その恵み。人生とは、流れてゆく時間そのものなのだ……。】
物語は三十を越えて結婚した「彼」が、妻と娘、仕事と浮気相手とともに過ごした20年間が綴られ、一切の固有名詞がなく「彼」「妻」「娘」という人称で語られながら「彼」以外の描写はなく、あくまでも「彼」が見たり、感じたりした場面のみで物語は進んでいく。
よって文章の構成上「彼」ではなく、「私」や「僕」であったりしても全然差し支えないだが、読み終えて数時間経過し、やはりこれは一人称の話ではなく、あくまでも「彼」であることのみで命脈が保たれている小説であることに気がついた。ここまで「彼」を動かす作家の存在が克明である小説も珍しいのではないか。
実はそれをもっと早い段階で気がついていたならば、磯崎憲一郎『終の住処』の読後の印象も随分違ったものになっただろう。しかし純文学などに免疫のない私にとって、二段組46ページというタイトな世界は、それを理解するには物語が短すぎたのだ。
冒頭で、彼が妻と結婚を決め、不機嫌な新婚旅行を済ませるまでの簡潔な描写は、何事にも説明を求めたがる私にはあまりにも無機質でそっけないものだった。ではまるで心情描写がないのかといえば、彼の心情を説明する描写はすぐに始まって、突如として現れた巨大なヘリコプターが彼を恐れさせ、つば広の帽子をかぶった老人が現れて彼の心象を揺さぶっていく。無機質な文体と超現実的な心象の交錯に一瞬『限りなく透明に近いブルー』的な酩酊世界を思い出させるものの、あれとはまったく似て非ざるもの。読後、次第にこみ上げて来たのは、彼に対する共感だった。
「別れようと思えば、私たちはいつだって別れられるのよ」と妻が不意にいう。この乾いた言葉にあるように、妻の主体性の無さは彼を悩ます。悩みながら日々の日常が過ぎていく。目的地に向かって歩いているつもりが、知らず知らずに道のりそれ自体が目的地とすり替わっているのではないかという疑念。そこに費やされた膨大な時間のどの段階を切り取っても、もう後戻りは出来ないのだという確信。ぐずぐずと思い悩んだ末に一大決心で妻に離婚を申し込もうとした夜に、妻の妊娠を知る。そうやって、時間の方が自分を追い抜いてしまったのだということを悟り、やがて五十路を越えて、この場所が妻とふたりの終の住処になっていのだという自覚していく。
彼が妻と幼い娘を連れて遊園地へ出掛ける場面で、妻が「せっかく来たのだから、観覧車にだけは乗っておきましょう」という。この「〜だけは」という言葉に引っ掛かりを感じさせるのだが、この言葉の次に妻と口をきくのが十一年後であるという飛躍。
確かに予想もつかないような展開に対して、快適な読書時間を過ごしていたとはいい難い気分で、全体としても『終の住処』に流れる空気は決して私が好みとするところではないのだが、読み手と遥か離れた地点で超然としているような小説でもないのではないかとも思う。
そもそも“終の住処”という言葉にはある種、人生への諦観がある。決して無限の将来があるわけではなく、そこには終わりの瞬間を見切ってしまった感慨が込められているのではないか。しかしそこに絶望があるわけではなく、諦めてしまうまで反発する日々こそが面白さなのかもしれない。
私とこの小説の彼とではあまりに生き方は違うのだが、彼が過去と時間に対する焦りは手に取るようにわかる。また小説の中でのこんな一節「過去というのは、ただそれが過去というだけで、どうしてこんなにも遥かなのだろう」という言葉に、もしかすると磯崎憲一郎という人は私とある種、似たような人生観を共有しているのではないかとさえ思った。
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