◎疑心 隠蔽捜査3
◎疑心 隠蔽捜査3
今野 敏
新潮社
とうとう文庫になるのが待ちきれず図書館で新刊本を借りてしまった。こんな形で今野敏『隠蔽捜査』シリーズを続けて読んでいるのだが、リアルに前作の『果断』から『疑心』の発売を心待ちにしていたならば、冒頭でいつものように新聞数紙を読みながらの朝食の卓で妻の冴子をやきもきさせ、署に到着するなり副所長以下を自分のペースに巻き込む竜崎伸也の姿に、「待ってました」とばかりに、竜崎伸也健在なり!と快哉をあげたことだろう。
【キャリアながら息子の不祥事で大森署署長に左遷された竜崎伸也。異例の任命で、米大統領訪日の方面警備本部長になった彼のもとに飛び込んできたのは、大統領専用機の到着する羽田空港でのテロ情報だった!】
ところが今野敏が自覚しているかどうかわからないが、この第3弾は前二作と比べると明らかに失速してしまっているのではないか。少なくとも停滞した感は否めない。
まずこのシリーズの面白さはバリバリのキャリアエリート、竜崎伸也のキャラクターにある。逆にいえば竜崎伸也というキャラクターの発見が、今野敏に抜群に面白い警察小説を書かせたのだともいえる。何しろ妻に向かって「お前は家庭を守れ、私は国を守る」と平然といってのける男だ。その竜崎のものの見方、考え方を読んでいくうちに、次第に彼に共感していくことの不思議さが魅力なのだと思う。
もちろん三作目ともなれば読者はすでに竜崎の面白さを十分にわかっていて、そのうえで竜崎に翻弄される周辺人物を笑い飛ばす楽しさを心得てしまったという問題はある。真のエリートとは何かを見つけてしまった読者にとって、待ち受けているものはマンネリズムで、これは作家にとって大きなハードルであったに違いない。
しかし私が『疑心』について「失速、停滞」だと思ったのは決してマンネリズムのことではない。むしろ今野敏がマンネリを打破するため竜崎を弄り過ぎてしまったことにあるのではないかと思っている。
今野敏は竜崎伸也というキャラクターに様々な原則や正論を語らせてきた。しかし、原則・正論という言葉は、それが破られるときに機能していることが多い。「本来、原則としてはこうなのだが〜」「お前の言い分は確かに正論かも知れないが〜」といった具合に、世間には原則と正論の先にあるものこそが面白いものであり、娯楽なのだという思い込みが存在する。
ところが常識の前提が失われた現代においては、あまりにかたくなな原則、正論の方がむしろ突拍子もないのだというパラドックスがあり、破ることよりも貫くことの方が遥かに難関で、そこに『隠蔽捜査』シリーズの妙味がある。
竜崎の信念とは原則・正論に合理性を加味したことであり、常に優先順位に従って行動していくことだ。思えば「原則」「正論」「合理性」「優先順位」など、どれもつまらないものとして受け取られがちだが、実はそれを貫くことがとてつもなく面白いものなのだというのが竜崎の魅力になった。
そして作家はその得難いキャラクターを確固たるものにするため、ありとあらゆる試練を繰り出して竜崎を揺さぶり続けてきた。それが警察内部の不祥事を握りつぶそうとする圧力であったり、息子の薬物使用、所轄署への左遷、妻の入院、捜査経過の審問であったりするのだが、しかし今回、今野敏が竜崎に仕掛けた揺さぶりは、部下である若い女性キャリア・畠山美奈子への恋慕という、それこそ突拍子もないものとなった。
まるで外攻めはマンネリなので、内攻めを試みてみましたといわんばかりなのだが、堅物のヒーローが恋の虜となっていく姿は、多少からめ手のような気もするがドラマチックではある。竜崎ファンがそれを望むかどうかは別としてもアプローチとしては悪くないとは思った。
しかしそのことで竜崎は重要な捜査情報を聞き逃し、夜も眠れず、美奈子が他の管理官や捜査員と言葉を交わすたびに嫉妬して心ここに在らずというというのはいくらなんでも弄くり過ぎたのではないだろうか。
「本当に、俺はどうしてしまったのだろう。こんな自分は認めたくなかった。これまでの人生で大切にしてきたものが何なのか、もう一度考え直すべきだ。」
こんな自問自答を延々と繰り返す。そして330ページの小説で200ページもこんな状態が続く。長い、あまりにも長すぎた。
前作の『果断』で妻の胃がんを疑いながらも「俺は医者ではないのだから」と任務をまっとうした姿を思い出すと、今回の竜崎の極端な揺れ方はどうしたものだろうか。
少々、程度の低いことをいうならば、アメリカ大統領来日に伴うテロ情報というシリーズ最大の緊急事案も、肝心の竜崎がうわの空なのだから、読み手のこちらも何やら絵空事のように思えてしまう。『果断』のように、捜査本部に新たな情報が飛び込むたびに新展開へと小気味よく響いていくものがない。そこにはそれ相応のストレスが生じてしまった自覚もあり、今まで一気読みさせられていたのが嘘のようにページが進まず、ようやく図書館への返却期限間近になって読了したという次第だった。
竜崎は過去に『風の谷のナウシカ』を観て息子への無理解を克服した男なので、恋の悩みを禅宗の『婆子焼庵』という公案(禅問答)で立ち直るのはさもありなんというところだろうが、小説の主人公が現状を打破するのは物語の中で展開して欲しい。実在する創作物の力を借りるのは厳しくいえば、少々厚顔無恥なのではないか。
幸い、恋の病から立ち直った竜崎の復活を祝福するかのように事件のほうも生気を取り戻し、クライマックスからラストまでは一気にたたみ掛けてくれるので、最後の最後で帳尻を合わすことが出来たのかもしれない。これはさすがだとは思う。またもやさぐれ刑事の戸高を便利に使ったなと思ったものの、ここはニヤリとさせてくれる。
それにしても一瞬目を疑うというか、あまりのことで苦笑してしまったのが、竜崎自身は親友とも何とも思っていないといい放つ伊丹俊太郎に、恋に苦悩する自らの心情を打ち明けてしまうくだりだ。こういうことを話せる関係を常識的には「親友」と呼ぶのではないか。もし伊丹に相談するのが最も合理的な解決策だと踏んだのだとなると、いよいよ竜崎伸也、恐るべしとなるのだが。
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