◎煙霞
◎煙 霞
黒川博行
文藝春秋
【大阪の私立晴峰女子高校では、理事長が学校法人を私物化していた。美術講師の熊谷と音楽教諭の菜穂子は、不正の証拠をつきつけ、理事長退任と教員の身分保障を求める交渉に加担するのだが、交渉を隠れ蓑にした理事長の財産強奪計画に巻き込まれていく。】
個人的には一作家の全著作中の既読率は間違いなく黒川博行が一番なので、この【読書道】では王道的な存在になっているのだが、そもそも一般的に黒川博行という作家の知名度はどうなのだろう。
少なくとも黒川博行の新刊が書店のメインコーナーに平積みされ、売り上げランキングの上位に名を連ねたという話は聞いたことがない。直木賞最終選考で5回落選というのはそれなりの勲章だとは思うが、受賞していないことで知名度が上がらないのであればそれは非常に残念なことだ。
今、並行して読んでいる伊坂幸太郎などは新刊を出せば、すぐに映画化の企画が上がる。黒川博行の原作はせいぜいテレビのサスペンス劇場枠で、設定を東京に移され、題名も大幅に変更され、新聞の番組欄に名前も出ないというポジション。
このまま「知る人ぞ知る」「一部で熱狂的なファンを持つ」「実力S級、売上げB級」などのプロフィールのまま埋没してしまうのだろうか。
やはり大阪ものというのがハンデなのかもしれない。“関西アンダーグランドの旗手”という代名詞は全国的な広がりにブレーキをかけているような気もする。確かに大阪弁のリズムは黒川作品に不可欠な要素だとしても、生粋の東京っ子にはベタ過ぎて厳しい面もあるのかもしれない。関東者の私が黒川作品を楽しめるのは阪神タイガースのファンであることと、東映の実録やくざ路線を浴びるほど観てきたからなのだろう。
しかし、そもそも『煙霞』にしろ、『蒼煌』『螻蛄』『悪果』と黒川のこだわりなのだろうが、タイトルが難しすぎる。
そもそも「煙霞」などという言葉を知っている日本人がどれほどいるだろう。意味は読んで字のごとく「煙のように立ちこめたかすみ、もや」。カッコいいとは思うもののどんな内容の小説なのかまるでわからない。『陽気なギャングが地球を回す』ほどくだけろとは思わないが、ひと目でキャッチできるタイトルをつければ、もっと売れるのではないかと思う。
タイトルのセンスはともかくとして、『煙霞』は間違いなくプロの作家の仕事だ。二億数千万の金塊をめぐって疾走する痛快エンターティメント。一気読みさせる面白さは保証されているようなものなのだからもっと目立ってもいい。
さて余談が長くなった。冒頭は大阪府教育委員会宛てに書かれた学園経営の不正を訴える匿名の告発文から始まる。図書館で借りた単行本には帯がついていないため、『煙霞』という情報だけで、「前略」から書き出される物語がどうなっていくのか予測を立てながら読むしかなかった。
そう、結果論ではあるが、この小説は読みながら予測を立てていくことで面白さが倍増する。起承転結のそのつどの局面で予測が裏切られていく快感に満ち満ちていたのだ。
黒川は業界の不正や裏取引をめぐる人間の欲望を何度も描いてきた。今度はどうやら教育界の裏側にメスを入れるようだ。そこで左遷必至の美術の常勤講師・熊谷と音楽教諭・菜穂子が身分の保全のため、学園の不正経営のカラクリを暴いて理事長と対決する物語だと予測を立てる。
予測の根拠は当然のことながら黒川博行が描き続けてきた過去作品の範囲だ。冒頭の告発文のノリで『蒼煌』に近い世界観ではないかと思った。
しかし考えてみれば学校経営には自治体からの助成金が流れる。教育界からの天下りもある。学校用地の移転が絡めば土地ブローカーも介在する。当然、そこには利権が眠ることになる。
いかにも黒川作品に出てきそうな悪党どもが、教育現場といえども利権を前に指を銜えているはずがないではないか。
理事長と愛人を拉致し、不正の証拠を突きつけて財産を巻き上げようとする悪が登場した時点で『蒼煌』の世界観は崩れ、『大博打』の様相を呈し、予測を軌道修正する。
悪徳を重ねて私服を肥やす理事長と、財産の強奪を企む教育ブローカー。そこに巻き込まれていく熊谷と菜穂子。
ところが菜穂子が巻き込まれてばかりでは腹が立つとばかりに動き始める。このあたりは『キャッアイころがった』の好奇心果敢な女子大生を彷彿とさせ、若干、嫌な予感が走る。基本的に黒川作品の殆どが好物だったが、あの女子大生の話だけはつらかった。
さらにイケイケの菜穂子とヘタレの熊谷の凸凹コンビという構図が際立ってくると、桑原・二宮の『疫病神』が蘇ってくる。そして事態は次々と二転三転して終いには『迅雷』の域まで飛んでしまう。『蒼煌』と『迅雷』は黒川作品の対極にある。
結局、黒川博行は『蒼煌』から『迅雷』まで自分のフィールドワークをごった煮にして『煙霞』という作品に仕上げたわけで、ここまで読者の予測を裏切り続けた黒川作品も珍しい。
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