◎海の稜線
◎海の稜線
黒川博行
創元推理文庫
一気に読んだ。とにかく一気に読ませるだけのパワーがあるというか、一気に読ませようとする圧力を黒川博行から感じてしまう。決して楽だから一気に読めてしまったわけではない。多少、熱帯夜が続いて寝苦しかったということもあったが…。
【大阪府警捜査一課の文田巡査部長と総田部長刑事。そこに東京から研修に来た若手キャリアが加わり、東西文化の違いに角突合せながらも、巧妙に仕組まれた殺人事件を追う。高速道路での乗用車爆破に始まった事件は二転三転し、意外にも偽装海難事故が姿を現す。】
ところで前回に読んだ『八号古墳に消えて』で書ききれなかったことがある。賞狙いのために書かれた前二作はまだ暗中模索にあって、黒マメコンビと大阪府警捜査一課の面々のキャラクターが確立しきってはいなかった部分も散見したのだが、三作目に至り主役のふたりはもちろん、画一的な描写に留まっていた上司や同僚にもそれなりの個性が芽生えてきていることを感じることができた。
上司の宮元班長、通称・バテレンが捜査の労をねぎらって黒マメに自分の車のキーを投げて「ラーメンでも食って来い」という場面はなんとも好きだし、最後に黒木刑事が感情を昂ぶらせ、マメちゃんに制止させられるところなどは、感想を書くために読み返してみたら思わず熱いものがこみあげてくる。
要するにそれだけ黒川のペンに登場人物たちへの愛着が湧いてきていたのだろうと思う。これは人気シリーズには不可欠な要素だろう。
しかしそこに馴れが生じてしまうのもシリーズものの落とし穴で、ことさらに黒マメがヒーローとしてエスカレートしていくのを良しとしない思いもあったのかも知れない。まして黒川自身が作家としてのキャリアを積み始めて、背景となる事件の様相が一段と濃くなり、例えばこの『海の稜線』にはみ出し気味の黒マメの軽さを投げ込むよりも、地道な“総長”こと総田刑事を事件に当たらせることによって、「刑事のキャラクターの面白さよりも事件の面白さ」という色合いがはっきりさせたことは確かだと思う。
調べてみると愛すべき黒マメコンビの長編は三作で終わっているようで、それは寂しい限りだが、黒川博行はデビューからの主人公による安定したシリーズものを量産するようなタマではないということで諦めるしかない。
もちろん二宮・桑原の“疫病神コンビ”ではないが、黒川の会話のテンポとリズムの巧さは「相棒もの」でこそ効果的に発揮されるのだとすれば、この“ブン・総長コンビ”も決して悪くない。さらに東大出のキャリア刑事、萩原がエリート臭をプンプンさせながら文田と東西比較文化論も含めてやり合う面白さが、この小説を一気読みさせた要因にもなっている。
大阪に土着してドブ板を這い回る巡査部長にしてみれば、悠長に標準語を使う国家公務員上級甲種試験合格のエリートくらい鼻持ちならない相手はないはずだ。黒川も文田の気持ちを代弁するかのように萩原をかなり嫌味たらしく描いているのだが、結局、文田を小馬鹿にしながらも萩原の思惑通りに捜査を進展させていくあたりに大阪の自虐精神の粋を感じさせて読後感を爽やかなものにしている。
インターネットが普及して以来、私もタイガースファンとのコミュニティで関西人との交流が一気に増えた。そこで文化論とまでは行かないまでも、東西の精神風土の違いを大いに楽しんでいるところがあり、東京文化にどこまで寛容に接してくるのかで、その人の関西人としての度量を計っているところもある。うどんの汁が濃いの黒いののレベルで敵愾心を燃やされると「小せぇな〜」と辟易してしまうのだが、その意味で、ブンの口撃にうんざりする萩原の気持ちもわからなくはない。
さて私は『八号古墳に消えて』の感想でこの『海の稜線』について触れた。
「海難事故に絡む保険金詐欺の実態を面白く読ませてもらったのだが、取材によって得た事柄のひとつひとつを巧みに料理して物語を生み出していく能力には感嘆するしかない」…正確にいえば「能力」ではなく「労力」というべきなのかもしれない。
東野圭吾が『カウント・プラン』の文庫本のあとがきに「『海の稜線』を読み進むうちに、私は大きなショックを受けていた。黒川博行はいかにしてこのテーマを思いついたのか(中略)私が他の作家がすごいと思う時というのは、その発想の原点が掴みきれない時である」と感嘆していたように、プロの目からしても黒川の取材力は相当に驚異なのだと思う。
この作品は所謂「姿なき容疑者」を題材とした本格推理ものになるのだが、関西、四国を飛び回るスケールの大きさと、緻密な取材力、考え抜かれた殺人トリックの妙に東西文化論という膨らみも加えて文庫の裏表紙に書かれた「黒川博行、初期の最高傑作」の惹句に嘘はないと思った。
それにしても最初に『疫病神』の文庫本を手にしたときに、最初の30ページで挫折して実家に6年間も放置していた、アレは一体なんだったのだろうか…。
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