◎流星ワゴン

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◎流星ワゴン
重松 清
講談社文庫


 さて私は重松清の小説を豊島区図書館で本を借りている。
 今や図書館もインターネットでの予約が可能ともなると、気軽さから片端からタイトルをクリックして一気に7冊も借りてしまった。ところが返却期限まで読書を消化することは簡単だとしても、この『読書道』にアップする作業がきつい。もともと「ゆっくり自分のペースで少しずつ」というのが苦手で、思い立ったら一気にコトを運ばねばとなってしまう性格が我ながら恨めしい。
 出版不況に寄与しない図書館利用をはじめたのは、自室に蔵書スペースがないのが一番の理由。それにしても借り受けての読書ほど究極的にノーリスクの趣味はないのではないか、他は趣味は散歩くらいしか思いつかない。とくに重松清の諸作などを読むにつれ、ソフト屋を長年やっている感覚からしても、金を払わずにこれほどの感動を享受していいものかどうか、かなりの後ろめたさがあることを白状しておきたい。
 私はもともと読書より蔵書が趣味なのではないかと思うほどだったが、重松清の諸作にはいつでも本棚から取り出してページをめくりたいという欲求を再燃させるものがある。少なくとも読ませたい人に渡す自由も含め、返却によって手元から本が消えてしまうのが残念でならない。まったく自分勝手な話なのだが…。

 【死んじゃってもいいかなあ、もう…。最悪の現実の前に自殺が脳裏を過ぎった38歳の秋。その夜、僕は、5年前に交通事故死した父子の乗る不思議なワゴンに拾われた。そして 自分と同い歳の父親に出逢った。時空を超えてワゴンがめぐる、人生の岐路になった場所への旅。やり直しは、叶えられるのか?】
 
 また38歳の父親の話だ。また長男で跡取りでありながら故郷を捨て上京してきた男の話だ。リストラにあって職も失っている。息子は中学受験に失敗し、心を閉ざして暴力に身を任せている。妻はテレクラで見知らぬ男との情事に耽って朝帰りの日々。そして故郷では老いた父親が臨終の時を迎えようとしている…。
 重松清の本は4冊目という浅いキャリアだが、ここまで重松清が描いていたすべての男たちの過酷な状況を一手に引き受けているような「僕」。とにかく八方塞の現実に主人公は喘いでいる。いや、もう喘ぎきれずに死のうと思っている。
 家族という共同体を持つということはときに決定的な不幸に晒されやすいものなのだろうか。もしかしたら、ひとりで生きていけたなら孤独であっても自殺まで考えることは少ないのかもしれない。何かから逃げる必要がない代わりに、それなりに逃げ込む場所が探せそうな気がするからだ。
 現実、日本全国の自殺者は年間3万人を越え、それが何年も継続している。とくに中高年の自殺者が増えているという。それにしても3万人が自ら命を落としている国というのはかなり異常なのではないか。一日におよそ百人の計算になる自殺事件ひとつひとつが新聞記事になるわけではない。『流星ワゴン』の僕が、冒頭でそのまま命を落としていたとしても、「仕事の事情」「家庭の事情」という理由で簡単に処理されていくのだろう。そういう時代なのだ。

 そんな時代の中で重松清は執拗に家族を描き続けている。そして私の読むところでは明確に再生を成し遂げ、最悪の状況を好転させた主人公はひとりもいない。しかし、常に逃げ道は用意していく。救済とまではいかないまでも最悪を回避させる道筋だけはつけていく。その道に乗るかどうかは主人公、つまり読者の感性次第だといわんばかりではないか。サクセスストーリーにも尺度があるということだろうか。
 本書は文庫版466ページの殆どをそのきっかけ作りに費やしているといってもいい。それは物語の紡ぎ方が巧みであってこそ完成されるものだ。重松清は『流星ワゴン』で少し驚くべき「きっかけの物語」を設定して、そこから家族とは、共同体の意味するものとは何かということを炙り出していくのだが、そこには「現実から逃げるな」という精神論ではなく、「現実の中から逃げ道を見つけて、とにかく一旦逃げろ」という重松テーゼが明確に打ち出されているのではないだろうか。

 死のうと思った和雄の前に、突然現れたのはワイン色のワゴンを運転する橋本さんと息子の健太君。この父子は5年前の自動車事故で即死するも成仏できず、三途の川の澱みを行ったり来たりしているという。リアル一辺倒の作家だと思っていたので、このいきなりのファンタジックな展開には驚いてしまったが、しばらく読み続けるうちに本書が単なるファンタジー小説ではないことがわかってくる。和雄は橋本さん父子によって死ぬほどつらかった現実を再び追体験させられていくのだ。死のうとする人は現実を悟って死んでいくのではなく、すべての現実を知っているわけでもなく死のうとしているのではないかと提起される。
 そこで和雄は過去の時間に立たされ、妻の情事の現場に出くわし、中学受験に疲れて公園で残酷な遊戯に没頭する息子の姿を見る。しかし数多くのファンタジー小説のように、そこで問題を回避し、先々の悲惨な答えがわかっている現実をやり直すことは出来ない。
 ただ現実を見つめて認識していくしかないのはこの物語が持つ非情さでもあるのだが、そんなとき長年にわたって仲違いしていた38歳の父と出会う。若き日の父は和雄を朋輩だとして、チュウさんと呼べと命じる。ファンタジーの付け入る隙を与えないほどリアルでシビアな現実を突きつけていく物語が、このチュウさんのキャラクターとワゴンの橋本父子のやり取りが珍道中となって一種のユーモア小説の色合いも帯びてくるのだから読者はなかなか忙しいのだ。

 力作だと思う。そして長丁場の物語をシビアとユーモアを重層させて一気に読ませ、後味を気持ち良くさせてしまう力量はさすがであるとしかいいようがない。
 しかし巻末のあとがきで重松清が書いているように、自分の子供を持ち、この子の歳だった頃の自分を思い出し、さらに自分と同い年の頃の父親を重ねることで『流星ワゴン』が出来上がったということならば、そこを共有できない読者がここにいる現実というのもなかなかシビアなのではないかと思ってしまった。


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