◎活動寫眞の女

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◎活動寫眞の女                  
浅田次郎
集英社文庫


 読後、私がまずやったことは日本映画のデータベースに入って溝口健二の『祇園の姉妹』を検索し、キャストに伏見夕霞の名前を探すことだった。半分は浅田次郎の創作だと思いつつも、半分は実在した女優だったのではないかとも思っていた。なにしろ物語では『祇園の姉妹』に彼女の名前がクレジットされていたとまで書かれている。
 残念ながらデータベースでは彼女の名を見つけることは出来なかった。おそらく吉村公三郎の『偽れる盛装』で試しても同じ結果だっただろう(当然か)。次にダイレクトに「伏見夕霞」で検索をかけてみる。ヒットした項目はすべて浅田次郎『活動寫眞の女』の解説やレヴューばかりだった。

 【昭和四十四年、京都。大学の新入生で、大の日本映画ファンの「僕」は友人の清家忠昭の紹介で、古き良き映画の都・太秦の撮影所でアルバイトをすることになった。そんなある日、清家は撮影現場で絶世の美女と出会い、激しい恋に落ちる。しかし、彼女は三十年も前に死んだ大部屋女優だった・・・。】

 大阪、兵庫に続いて読んだ本は丸ごと京都が舞台。別に虎キチだからといって関西におもねる気はなく単なる偶然だとしても、どうも私の読む京都ものには万城目学『鴨川ホルモー』、森見登見彦『夜は短し歩けよ乙女』と、夢か現か幻かと思わせるような京都が現出する。そしてそのどれもが京都以外では成立しない物語であり、主人公が皆、京大生であるという不思議な符号を持っている。
 それにしても『夜は短し歩けよ乙女』の読書からちょうど一年。今出川通「進々堂」にて目出度く結ばれた二人の物語からあっという間の時の儚さ。そんな儚さを超越するような眩暈感が今度は浅田次郎がもたらしてきた。『活動寫眞の女』では「進々堂」が物語をうねらせる舞台となる。
 まったくこの地を住処として生活する市民にとって京都は単なる日常なのだろうが、私個人にとって京都は思い出も含め、虚実皮膜、幻惑の都となっている。
 「なぜ京都人は的確に方角を言い当てるのだろうか」。これは首都圏に住む者のリアルな疑問なのではないか。この小説で有難かったのが、「僕」が東京人で、まるでエトランゼのように京都の街に投げ出されているという設定だったこと。僕が京都の風土や人々を外から体験する視点から、主人公の京都への批判と理解が読者である私と同調する構造には随分と助けられた気がする。
 いちいち嫌味ぽく聞こえる京都弁。舌に馴染まない下宿や学食の食事。不快な風のない湿った空気。よそ者の自分を排斥しているような京都人の閉鎖的で高踏な印象。そんな僕は五山の送り火、法金剛院の極楽浄土を思わせる蓮池などを見聞、体験していくうちに次第に古都の幻惑にとりこまれていく。

 さて私個人の現実の思い出はともかくとして、私は京都に四通りのイメージを持っている。「平安京」「幕末」「学生文化」そしてこの物語の骨子となる「映画」だ。そう京都には“日本のハリウッド”という顔がある。銀幕に浮かぶ光と影、仮初めの恋模様。京都の物語が虚実皮膜の淵で浮遊するのは、ここが映画の聖地であることと無関係ではないのではとも思う。
 「~キルトの扉を引けば、純白のスクリーンの呼気が頬に触れる。光が落ち、艶やかなブリーツのカーテンが音もなく上がって行く。そして唐飛に、頭上の闇を光の帯が走る。」こうして浅田次郎による虚実皮膜の幻惑物語が開巻ベルを鳴らす。

 物語は西京極の映画館で主人公の僕と清家忠昭が出会って意気投合するまで、作家が敢えてそうしたのか夏目漱石の書生ものを思わせる古色蒼然とした語り口で入っていく。
 舞台は昭和四十四年。明治文学調に突然「ゲバルト」や「ロックアウト」といった単語が混じる奇妙さは冒頭から早くも幻惑の伏線が張られているかのようだ。因みに『活動寫眞の女』は平成になってから上梓された小説だ。
 そして祇園育ちの下宿のおばさんの京都弁を頭の中で音に変換しながら、自然と溝口健二の映画が浮かんでいた。それが物語の進行で溝口健二がたったひと言「あかん」という台詞をいうため、撮影所の倉庫番「辻老人」の口を借りて登場するのだから映画ファンの琴線に触れないはずはない。

 ただ正直いえば、「僕」と結城早苗の恋愛や、伏見夕霞に幻惑される清家忠昭への友情は、カツドウ屋たちが撮影所で滾らせた熱気の系譜と比べても、心情自体が饒舌の世代の形骸でしかないように思えて、好きにはなれなかった。「僕」が早苗との恋を終らせて京都を去る決意をすることへの理解も乏しかったし、清家が伏見夕霞に入れ揚げたことに彼の生い立ちを反映させたのもやや冗長に思えた。
 私はリミュエール兄弟によるキネマトグラフの発明の紹介から、やがて話はマキノ省三、尾上松之助、永田雅一のエピソードへと移っていくこの小説を撮影所華やかりし時代の日本映画へのオマージュとして読んだ。
 さらに溝口健二、吉村公三郎、小津安二郎という錚々たる監督の中で、個人的には(京都や映画の話にはつい「個人的に」というフレーズを頻発させてしまうのだが・・・)山中貞雄が物語の中枢に存在していたことに瞠目してしまった。私が生涯で観た日本映画のうち、『丹下左膳余話・百萬両の壷』はベスト5に入る名作であり、死ぬまでに絶対にスクリーンで観ることを誓ったベスト5に『人情紙風船』が入っている。
 現存するフィルムがたったの三本しかない伝説の天才監督について書き始めると読書感想文ではなくなってしまうのだが、日本映画のオマージュということでいえば浅田次郎は大陸の野戦病院で夭折した山中貞雄に最大限の賛辞を捧げている。
 山中貞雄の戦死公報が届いた日、“最後のカツドウ屋”として描かれる辻老人が東本願寺のお堂に駈け上がって絶叫する。
 「神さんも仏さんも、蓮如も親鸞上人もあるかい。なぜ貞やんを殺した。日本の映画、どないする気ィや。お釈迦さんも阿弥陀さんもこないあほなことするなら、貞やんのかわりに映画とってみいや。撮れへんやろうが!」と。間違いなく山中貞雄は『活動寫眞の女』の主役のひとりだった。

 そして映画スタアの夢を持ちながら山中貞雄との恋に落ち、山中の戦死の日に撮影所で首を吊った伏見夕霞。まるで中央映画撮影所がテレビ局に買収され、アーチ形のスタジオが取り壊されるのを恨むように彼女の魂が三十年の時を経て撮影所に現れる。
 私が知る限りでもいくつかの撮影所が縮小、閉鎖された。太秦とは規模が違うにしても、前職の関係で東映の大泉撮影所にはヒーローショーの着ぐるみの搬入搬出で何度か足を踏み入れたことがあるので、どうしようもなく肌を刺してくるような撮影所独特の雰囲気は知っている。そこにたむろするおじさんたちは殆ど飯場労務者の風情だったが、彼らも再開発によるデジタル化と敷地に建設された百貨店やシネマコンプレックスに追われるように消えていったカツドウ屋たちだった。
 城戸四郎が「松竹大船調」を確立した大船撮影所にも二度ほど訪れたことがある。小津安二郎、木下恵介から笠置衆、渥美清が闊歩した名門撮影所は今や女子大のキャンパスになってしまった。まさに撮影所こそが「つわものどもが夢の跡」なのだろう。

 むしろ、この小説の登場人物たちが忌み嫌ったフィルムのビデオグラフ化でずっと飯を食ってきた自分にとって、二十歳代の時に映画を「写真」という年配者が身近にいたことをせめて喜ぶべきなのかもしれない。


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