◎月長石
◎月長石
ウィルキー・コリンズ(THE MOONSTONE)
中村能三・訳
創元推理文庫
この[読書道]にしばしば登場する中学時代の友人I君。私は勝手に ”I君シリーズ ”と名付けることにしている。ウィルキー・コリンズ『月長石』はそのI君シリーズでも真打的存在となる。
ここで本題に入る前にI君と『月長石』の思い出について振り返っておこう。要するにのっけから思いっきり脱線しますよという宣言でもある。
以前にも書いたことだが、I君とは中学のバスケ部の仲間で、家が近所だったものだから部活の帰り道によく小説の話をした。
I君はこと読書に関しては早熟で、探偵小説から夏目漱石、シェイクスピアまで広範な守備範囲を誇る所謂 “本の虫 ”ってヤツで、私は素直に尊敬していた。にもかかわらず、中二から中三にかけて何故か急に姿を見かけても目も合わさず口もきかなくなってしまう、思春期特有の「疎遠の法則」にハマってしまったわけだが、彼と本や作家について語りながらの帰り道は今でも楽しい思い出となっている。
そんなI君と地元の古本屋「ふいろす書房」に行った時のこと。I君は電話帳と思しき分厚い文庫本を買っていた。それが『月長石』だった。分厚いだけではない、小さめの明朝活字フォントがぎっしりと埋められていて、こちらはようやく文庫本を手にする程度のレベルだったので、正直そんな本をアソコの毛が生えたかどうかというガキが読むことがもう信じられなかった。多分、中学生の私には創元推理文庫の『月長石』は世界一分厚い本に思えたのだろう。
そもそも『月長石』というタイトルだけで苦手なSFだと勝手に思い込んでしまい、今にして思えばこんな本を買うI君にはおいそれと付き合えないと思ったのも疎遠となる原因だったのかも知れない。
しかし以来45年。『月長石』なる小説のタイトルは時折気になっていた。
曲りなりにも[読書道]なんてやっている以上、中学生になんか負けられるかとの気持ちはある。“ I君シリーズ ”とは別名“ I君への挑戦状 ”でもあるのだから。
そんなこんなでI君が愛読して止まなかったエラリー・クイーンを一冊も読んでいないまま、いよいよ『月長石』を手に取ったという次第。さすがに今は世界一分厚いとは思わないものの、779ページで小さな活字を目にしたとき「ついにこれを読む日が来たのか」と、少なからず身構えていた。
【インド寺院の宝〈月長石〉は数奇な運命の果て、イギリスに渡ってきた。しかし、その行くところ、常に無気味なインド人の影がつきまとう。そしてある晩、秘宝は持ち主の家から忽然と消失してしまった。警視庁の懸命の捜査も空しく、〈月長石〉の行方はようとして知れない。】
歴史的な評価としてウィルキー・コリンズ『月長石』は「最初の、最大にして最良の推理小説」だということらしい。ウィルキー・コリンズが本書を上梓したのが1868年というのだから[読書道]最古典をジュール・ヴェルヌ『海底二万里』から更新したことになる。
中学生の読み物として面白かったのかどうか今さらわかる術はないが、結果として思っていた以上に読みやすく、推理小説というよりもイギリス貴族たちによる絢爛たる群像劇という読後感だった。
「月長石」で調べてみれば宝石であることがわかる。少しばかりの常識があればSFではないことは一目瞭然だった。そのインドから持ち去った宝石が消えてしまい、その行方をめぐる人々の物語であり、小説は関係者の手記による回想の形でリレーされていく。
要するに物語の骨子である「月長石事件」はある程度の解決を見ており、その数奇で複雑な事件を関係者の供述から振り返るという形式で、それら関係者の手記は事件の中心人物となったフランクリン・ブレークからの依頼という体裁をとっている。
それゆえに、事件の状況説明よりも語り手の主観で読ませ、さらに語り手が何度か途中交代するので長尺でも飽きさせることはない。
そもそも事件の供述である書き手の主観が走りすぎて時々批評や皮肉が交じるので平板にならず、妙な熱を帯びて、ややもすると自分語り特有の独善も噴出するので150年前の話でありながら現代の湊かなえとも通じる属性もあり、所詮は俗物たる人間の自己肯定に現代もヴィクトリア朝もないという展開となるのが面白い。
最初の語り部は物語の舞台となるヴェリンダー家の老執事、ガブリエル・ベタリッジ。
この手記は事件の発端から核心手前までが綴られているのだが、それだけで優に300ページを超える。
ベタリッジは自分が仕える主人には忠実であるがゆえに、当然、他者に対して厳しい。しかし偏狭で偏屈な年寄りだと思えないのは自らの生き方の指針を『ロビンソンクルーソー』から得ているというユニークさがある。
曰く「気が滅入ったときにも―」「なにか忠告が欲しいときにも―」「かつて女房に悩まされたときにも―」「酒をやりすぎなときにも―」この老執事は「人生の窮境に立ったときの頼りになる伴侶としてきた」といい、あまりにも熱心に読み込んだため堅牢な『ロビンソン・クルーソー』を六冊も駄目にしてしまったほど。だからこの手記を依頼され、引き受けたときも「~自分の実行能力の正確な判断もしないで、仕事にとりかかる愚かさ・・・」という『ロビンソン・クルーソー』第二編百二十九ページの一文が目に飛び込んできたとのことだ。
そしてベタリッジがことあるごとに「探偵熱」に冒され、事件に首を突っ込もうとして、ヴェリンダー家にやってきたカッフ捜査部長の冷徹な捜査手法を観察し、自らその助手を買って出ようとするのだが、その老人の行動原理もおそらくロビンソン・クルーソーから矜持を得たものだと思われる。
そんなユニークな人物だが、いかにもヴィクトリア朝のイギリス階級社会の執事らしい生真面目と冷徹な人物観察の視点から「月長石事件」の発端と、複雑な人間関係を過不なく伝えてくれているので、最初の記述者としてはまさにうってつけの人物だったといえる。
次に語り部として登場したジョン・ベリンダー卿の姪、ドルシーラ・クラック。
この人のあまりの独善は強烈だった。ここまで来ると事件の概要もなにもあったものではなく、フランクリンがよくぞこの女に手記を書かせたものだと思い、思わず笑ってしまう。
そしてこのクラック嬢の登場で『月長石』の世界観が一気に広がったといってもよく、そこから英国にはプロテスタントとカトリックとの激しい相克があったことが炙り出されることになる。
要するにベタリッジとクラーク嬢によって物語を彩る人物評が一気に重層的となり、事件がいよいよ当時の世相と相俟って深遠さを増してくるという趣向なのだ。
カッフ捜査部長の冷徹な推理で『月長石』が推理小説として認知され、クラック嬢である種の通俗小説の体をなしているのだとすれば、ウィルキー・コリンズの作家としての力量は相当なものだといえるだろう。
月長石を盗んだのが実に意外な人物で、驚かされることになるのだが、ただ、その動機と真犯人を特定するためにある実験が行われ、そこにアヘンが幻惑することで、我々、現代人には少なからず珍妙な後味を残してしまうのも確かだった。
また王朝を繰り返してきたが、そのヒエラルキーの底辺にいたであろうインド人。
「ノックスの十戒」を持ち出すまでもなく、王国が植民地支配していたことで、余計に東洋の神秘への畏怖感が色濃く反映している窺えるのだが、これは間違いなく民族的な差別思想でもある。
アヘンの幻惑と東洋の神秘。絢爛にして複雑なヴィクトリア朝の人間模様に対し、幻惑と神秘というファクターが荒唐無稽に思えてならず、もちろん1868年の小説であることは十分に承知の上で、これをミステリーとするならば、明らかなノイズではなかったかと思うのだ。
以上、還暦カウントダウンの今、こうして中学時代のノスタルジーの中で『月長石』を読み終えたわけだが、私個人の感慨の大きさからすれば、東洋人差別など実は大した問題ではないのだが。
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