◎暗礁
◎暗 礁
黒川博行
幻冬舎文庫
「疫病神が舞い降りてきた。半年ぶりに聞く声だった」
この書き出しから文庫本上下巻、本編トータル850ページの旅が始まり、この書き出しだけで私は一気に読書世界を滑走した気分になった。
最初に黒川博行の本を買ったのが『疫病神』。それを30ページ読んで挫折し、ようやく再読したのが今からちょうど二年前の12月。あまりの面白さに夢中となり、続けて同じ主人公コンビの『国境』を読んで以来、その後、文庫化された黒川作品20冊を読み漁り、この“疫病神シリーズ”の『暗礁』でひと区切りつけようかと思っている。
直木賞に候補となること5回。いよいよ黒川博行も文庫本が上下巻で発売されることになったようだ。読み手としては値段がかさむ分だけ迷惑な話ではあるのだが…。
【疫病神・ヤクザの桑原保彦に頼まれ、賭け麻雀の代打ちを務めた建設コンサルタントの二宮啓之。利のよいアルバイトのつもりだったが、その真相は大手運送会社の利権が絡む接待麻雀。シノギの匂いを嗅ぎつけたコンビの獲物は数十億円に及ぶ大手運送会社の闇のマル暴対策費。追いつ追われつの壮絶な裏金争奪戦は関西から沖縄諸島へと展開する。】
大阪弁のトーンで描かれるアンダーグランドな世界観ということで黒川博行をまとめてしまうことは可能なのだろうが、『疫病神』で初見して以来、改めてデビュー作品から遡って、黒川作品を周回しながら、こうして桑原と二宮のコンビに戻って来ると、やはりこのシリーズだけは黒川作品の中でも独自のカテゴリーとして確立していることを痛感する。
冒頭に紹介した「疫病神が舞い降りてきた。半年ぶりに聞く声だった」のワンフレーズだけで、本格ミステリー、サイコサスペンス、ハードボイルドに短編集など、黒川の引き出しを体感してきたはずのものが、最初に『疫病神』『国境』を読んだ時点に鮮やかに戻されてしまった。
要するに黒川博行を二年がかりで読んできた蓄積が、『暗礁』で再びシリーズに戻った時に自分の中で二宮・桑原がどう印象を変えてくるのかという大きな興味も、結局は二年ぶりの邂逅を懐かしむという読書になってしまったということだ。
しかし黒川作品のすべてのエスプリがこのシリーズにはぶち込まれていることもまた事実ではある。一種の情報小説的な業界のからくりへの精緻な描写は黒川作品の重要な背骨であると思うのだが、当然、このシリーズには不可欠なものではあるし、その複雑に絡み合う利権のからくりを二宮たちが解明していく様は、初期の大阪府警捜査一課ものの捜査描写を彷彿とさせ、更に『切断』の暴力性、『大博打』の計画犯罪、『封印』のハードボイルド、『迅雷』の粗暴なまでのテンションなど、このシリーズが黒川小説の要素を網羅している部分は多い。
そもそも桑原が局面を打開する際に見せる機転の数々がシリーズのカタルシスを呼んでいるのだが、出たとこ勝負で行き当たりばったりという余韻を残しつつ、発揮されているのは本格推理ものの知性なのではないかとも思っている。
例によって大物、小物ひっくるめて、やくざから刑事、堅気まで誰一人として地道な人生を歩もうとする人物の描写は皆無に等しく、例えば桑原がどつき回すチンピラひとりひとりが『カウント・プラン』『燻り』『左手首』などの短編でそれぞれの主人公を張っていると考えられなくもない。そしてなによりも一攫千金を掴み取ることに執念を燃やす黒川ワールドの主役たちの集大成がこの疫病神コンビであることはいうまでもない。
さて『暗礁』はおそらく現段階では最大枚数が費やされた作品だと思うのだが、上下巻とも一気に読めてしまい、それほど長大作を読みきったという読後感はなかったのは『国境』のときと同じ印象である。
この物語のキモは桑原のシノギへの執念に尽きるだろう。そして人間関係の複雑さは黒川小説でも最大級で、そこに巨大な利権があることはわかっているのだが、その利権の総元締めが企業なのか、警察なのか、やくざなのかが判然としないまま、桑原が強引にこじ開ける風穴に我々は二宮とともに腕を引っ張られように突き進んでいく。
ただ、桑原と二宮の丁々発止のやりとりは相変わらず楽しいのだが、以前の警察小説のように物語の途中で一度、展開を整理するような描写があってもよかったのではないか。シノギの矛先が二転三転するのを、黒川が面白がり過ぎた恨みは残ったような気がする。
さて、こうして7月より黒川博行だけを続けて読み漁ってきたのだが、文庫化された小説はほぼ読了した。ここで一旦は矛を納めるつもりではいるのだが、直木賞候補となった『悪果』は勿論、二宮・桑原コンビの最新作『螻蛄』は週刊新潮の連載を終えて単行本化を待つのみとなり、そのときはさすがに文庫化までは待てないのではないかと思っている。
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