◎容疑者Xの献身
◎容疑者Xの献身
東野圭吾
文藝春秋
【天才数学者でありながら高校教師に甘んじる石神は愛した女を守るため完全犯罪を目論む。運命の数式。命がけの純愛が生んだ犯罪。石神の旧友である物理学者の湯川は果たして真実に迫れるのか。】
ミステリーと対峙する時、そこに描かれているトリックに対しては常に受身でありたいと思っている。物語の局面で本を一度閉じて、作家が提示している謎に挑戦してやろうという気にはあまりなれない。自分がホームズになったつもりで思考しながら物語に入ることよりも、ワトソンの気分でホームズを観察していた方がずっと面白いと思っているからだ。ミステリーの読み方としては非常に消極的なのだろうが、もともとミステリー愛好家になるつもりはない。
もちろん推理小説を読んでいるわけなので、物語の流れの中で自然に謎解きという作業にはまってしまう場合もある。ワトソンにだって一応下手な推理を思考してホームズに皮肉がられる役割は与えられているわけだ。
この東野圭吾『容疑者Xの献身』はワトソンでいることの快感を十二分に味合うことが出来る傑作だ。もっと素直な書き方をすれば「素晴らしい、参りました」ということか。探偵役の湯川と犯人役の石神という天才に翻弄され、さらにいえば東野圭吾の術中に身を委ねていることが何よりも幸福だった。本書の場合のワトソンが草薙刑事であるのだとしたら、草薙の目線で読むことこそが私にとっての最良の読み方であり、それはまったく正解だったと思っている。
それにしても『白夜行』に挫折して三年。『宿命』『ブルータスの心臓』『あの頃ぼくらはアホだった』程度の読書歴を持たない私に東野圭吾の何たるかを書く資格はないのかもしれないが、今回は底知れない怪物の側面を見てしまった気になっている。
この作品はいわゆる「倒叙もの」なのだろうか。確かに犯人も殺害現場も明確に描写されているので、広義としては「倒叙もの」には違いない。このジャンルの魅力が犯人に感情移入することで、追いつめられていく緊迫感をスリリングに味わうものなのだとすれば、学生時代に読んだアイルズの『殺意』やクロフツの『クロイドン発12時30分』などの古典と同様に、私は『容疑者Xの献身』の読書時間の大半を緊張しながら費やしたのだから、十分に倒叙推理の醍醐味を満喫したといえるかと思う。
しかし犯人はわかっているのだが大部分の謎とトリックはオブラートされたまま潜伏しているので、読者は「犯人の身を案じつつも」湯川探偵とともに謎に挑んでいくという複雑な心理状態になっていく。この多面構造を発想することもさることながら、その方法論に東野圭吾の怪物的なすごさを感じてしまったのだ。
そもそも、この人は表現者として情動の発露の中で物語を紡いでいるのではなく、冷徹に厳選されたピースを用いて「情動」そのものを構築しているのではないだろうかとも思った。情動などとまったく抽象的な言葉で誤魔化すことを許してほしいのだが、パズルを構築し、物語そのものを支配していた“X”が、最後の2ページに情動を昂ぶらせて一気に破綻することで読者が得るであろう解放感までも計算していたとすれば、トリックや仕掛けとと同列に情動をも組み込んでしまった作者には恐れ入るしかない。これは想像に過ぎないのだが、殆どの作家が小説を書き終えた時に抱くであろうカタルシスと、東野圭吾のそれとは質が違うのではないだろうか。
『あの頃ぼくらはアホでした』にはこんなくだりがある。
“よく数学嫌いの人間が、「微分や積分や三角関数が何の役に立つんだ」と開き直っているのを耳にするが、理系の世界に生きている人たちにしてみれば笑止千万だろう。「微分?積分?三角関数?そんなお遊びみたいな簡単な数学は何の役にも立たない。役に立つのは、そこからさらに先にある本当の数学なのだ」と。”
『容疑者Xの献身』は物理学と数学の天才同士が対決する物語だ。文中に数学の定理がセリフとして語られる場面があり、そういった設定に単純に誘導されてこんなことを書いているつもりはないのだが、人間を理系・文系の二種類に分ける是非はともかく、程度は低いなりに文系人間でしかあり得なかった私には「微分、積分の先の数学」を経験した東野圭吾の創作手法が、登場人物を記号化して配置し、何パターンかの数式を組み合せて物語を構築したのではないかと陳腐に思ってしまうのである。
現実『ブルータスの心臓』はそんな作品だった。あれは登場人物たちに記号以外の役割を与えないままに完成させるという実験だったのではないかと想像している。
ところが『容疑者Xの献身』ではさらに進化して、読者心理まで計算式に取り込んで「感動」という解答まで導き出してしまった。こんな書き方はひどく味気ないのだが、理系的発想をいたずらに味気ないもとしてしまうのは文系人間のコンプレックスでもあるのだから、ここは素直に東野圭吾が到達した偉業に頭を下げるつもりでいる。
『白夜行』で見せた少年少女たちの心の闇をギリギリまで描き込む文章力を思い知らされたうえで『容疑者Xの献身』を読むと、東野圭吾が理系畑を歩んできた経歴そのものが、作家の数あまたに及ぶミステリー界にあって、すでにこの人は最終兵器を身につけているのではないかと思ってしまうのだ。
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