◎太陽の季節
◎太陽の季節
石原慎太郎
新潮文庫
通っている眼科医院の待合室に暇つぶしの本がなく、近くの古書店まで抜け出してワゴンでの投売りでこの本を見つけて購入。今時のブックオフでは店頭で扱わないような黄ばんだ文庫本だったが、選ぶ時間もなかったし、本なら何でもよかったという失礼な読書動機になってしまった。
しかし、それでも村上龍、村上春樹という時代の要求から出現した作家が続いたこともあり、その先駆となる石原慎太郎『太陽の季節』はおぼろげながら射程に入れていたような気はする。また文藝春秋の芥川賞選考で歯に衣着せぬ選評を展開する石原の出世作を一度読んでみたいという気分もあった。
『太陽の季節』が発表されたのは54年前のことであるが、買った文庫の奥付には「昭和四十八年 三十刷」となっているので、本そのものも36年前に誰かが新品の棚から購入したことになり、時代の変遷をくぐりながら私の手元に迷い込んだと思うと、これもまた時代の感慨ではないか。
私なりに今回の読書のキーは「時代」であると思っている。
【津川竜哉はボクシングに熱中しながら仲間と酒・バクチ・女・喧嘩の自堕落な生活をしている。ある夜盛り場で知り合った少女英子と肉体関係を結び、英子は次第に竜哉に惹かれていくのだが…。】
正直いうと、この小説が発表された昭和30年当時に立ち返ったときに23歳の学生作家・石原慎太郎が描こうとしたテーマは衝撃的であったと思うが、物語に描かれた青春像が文学として衝撃であったのかどうかは疑問だった。
戦後十年という時代の若者風俗の資料としての価値が、文学的価値をもはや超えてしまっているのではないか。社会学的に名を刻むだけの知名度と時代性はあっても、とても文学として普遍の存在であるとは思えなかった。
文庫本に収録されていた表題作以外の『灰色の教室』も然り、『処刑の部屋』も然りで、とにかく物語を動かす登場人物たちよりも、作家の押し出しが異常に喧し過ぎるのも気になるところで、通奏低音として描かれる金持ちのドラ息子たちが高校生、大学生の分際で自分のヨットを所有し、キャバレーに通い詰め、酒や博打に溺れて女に狼藉を繰り返す姿に対して、饒舌な実況放送を聴かされている気分だった。
そもそも「太陽族」という“時代の衝撃”など、所詮は一過性のものにしか過ぎない。普遍を勝ち取れなかった以上は、手にした文庫本同様に黄ばみ、色褪せていく一方である。
引用が少々長くなるので気が引けるが、『太陽の季節』が芥川賞を受賞したときの選考委員たちの講評は以下の通り。
●石川達三…欠点は沢山ある。気負ったところ、稚さの剥き出しになったところなど、非難を受けなくてはなるまい。倫理性について「美的節度」について、問題は残っている。
●井上靖…問題になるものを沢山含みながら、やはりその達者さと新鮮さには眼を瞑ることはできないといった作品であった。
●中村光夫…未成品といえば一番ひどい未成品ですが、未完成がそのまま未知の生命力の激 しさを感じさせる点で異彩を放っています。石原氏への授賞に賛成しながら、僕はなにかとりかえしのつかぬむごいことをしてしまったような、うしろめたさを一瞬感じました。
●丹羽文雄…若さと新しさがあるというので、授賞となったが、この若さと新しさに安心して、手放しで持ちあげるわけにはいかなかった。才能は十分にあるが、同時に欠点もとり上げなければ、無責任な気がする。
●佐藤春夫…反倫理的なのは必ずも排撃はしないが、こういう風俗小説一般を文芸として最も低級なものと見ている上、この作者の鋭敏げな時代感覚もジャナリストや興行者の域を出ず、決して文学者のものではないと思ったし、またこの作品から作者の美的節度の欠如を見て最も嫌悪を禁じ得なかった。
●川端康成…私は石原氏のような思い切り若い才能を推賞することが大好きである。極論すれば若気のでたらめとも言えるかもしれない。このほかにもいろいろなんでも出来るというような若さだ。なんでも勝手にすればいいが、なにかは出来る人にはちがいないだろう。
●舟橋聖一…この作品が私をとらえたのは、達者だとか手法が映画的だとかいうことではなくて、一番純粋な「快楽」と、素直にまっ正面から取組んでいる点だった。彼の描く「快楽」は、戦後の「無頼」とは、異質のものだ。
資料的価値しかないと言い切ってしまったので、あえて資料を引用してみた。(しかし選考委員の顔ぶれがすごさよ!)
もちろんその後に石原慎太郎が十分に俗な存在となり(俗物とはいっていない)、太陽族の映画からは実弟の石原裕次郎というスーパースターが輩出されるなど、この芥川受賞作はとことん世俗に塗れてしまい、上記の選者たちもそこまでは予想し得なかったようだが、総じてテーマの斬新から比べて文学としては稚拙だということでは、50年以上経った今でも率直に感じるところではあった。
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