◎太陽の塔
◎太陽の塔
森見登美彦
新潮文庫
叡山電車は万博公園まで直通で走っているのか・・・?と、思わず叡山鉄道の路線図を調べてしまった。森見登美彦の小説の致命的欠陥は私に京都の土地鑑がないことにある。
これが海外小説ならば、土地鑑もへったくれもないので別にどうこうはない。しかし中学校の修学旅行を皮切りに、幕末の熱き志士たちの足跡を辿って何度か上洛を重ね、その後も出張、デート、交友と訪れる頻度は関東圏外の都市の中で京都が圧倒的に多いというのがかえって始末に悪い。
「東大路通りはあたかも京都をまっすぐ貫いているように装いながら祇園八坂で腰砕けになり、なし崩しに九十度回転して九条通りになってしまうという、私の嫌いなタイプだ」といわれて、リアルに笑えるジモティーが羨ましい。こんな不公平な話はない。何よりも読書の平等性に著しく欠けること甚だしいではないか。
もちろん私に京都の土地鑑がないことなど森見登美彦の預かり知らないことであるし、こちらも東大路通りの事情まで学習しようとは思わないものの、京都の本質的な匂いがわからないまま、森見氏の小説を読むことは実に不幸だ。
いや、森見氏は私が京都について観光客程度の関わりでしかないことをいいことに、この古都の魅惑をことさら扇情的に書き連ねて幻惑しようとしているのではないか、そうだ、きっとそうに違いない。
【京大5回生の私は「研究」と称して自分を振った女の子の後を日々つけ回していた。男臭い妄想の世界にどっぷりとつかった彼は、カップルを憎悪する女っ気のない友人たちとクリスマス打倒を目指しておかしな計画を立てるのだが…。】
さて、昨今の昭和回顧ブームの先入観があったのだと思うが、本書を手に取ったときにタイトルから作者の少年時代の万博をめぐる回顧的な物語だと思っていた。まさかこのタイトルであの『夜は短し歩けよ乙女』で私を迷宮の淵にたっぷりと惑わせて魅了させた世界観のルーツを読むことになるとは思わなかった。
そもそも森見登美彦は1979年生まれ。よってこの小説に登場する太陽の塔は万博会場で人類の進歩と調和したあれではなく、公園に残された威容なオブジェとしてのそれということになる。
主人公の“私”は「つねに新鮮で、つねに異様で、つねに恐ろしく、つねに偉大で、つねに何かがおかしい」ものとして太陽の塔を評価している。さらにカノジョだった“水尾さん”は「宇宙遺産に指定すべき」だと提案する。
そうか、あの歴史的お祭騒ぎの象徴であり、少年時代の郷愁として存在していたあの塔に対し、下の世代にはそういうイメージを持っていたのかとかなり興味深く読んだ。しかし私にいわせれば森見氏の描く京都も十分に「つねに新鮮で、つねに何かがおかしい」、と思っている。
『夜は短し歩けよ乙女』のルーツと書いたが、彼女の背中を追いかける一人よがりで自意識過剰気味の“私”がいて、「我々の日常の九〇パーセントは頭の中で起こっている」「みんなが不幸になれば僕は相対的に幸せになる」などと相変わらず豊富なボキャブラリーを駆使する男仲間がいる。さすがに処女作から天狗の術を会得した「樋口さん」や三階建て満艦飾チン電に乗った「李白爺」などのブッ飛んだキャラクターは出て来なかったが、そんな奴らが出て来ても不思議ではないファンタジーワールドとしての京都の下地は処女作にしてすでに出来上がっていた。本上まなみに解説で書かれてしまったが、「夢玉」「ゴキブリキューブ」「京大生狩り」「猫ラーメン」など解ったようでまるで解らない小道具が矢継ぎ早に登場するのも楽しい。因みに途中で何の脈絡もなく登場する全身タイツの舞踏集団は「詭弁論部」の前身なのだろうか。
そんなファンタジーな京都と太陽の塔が森見氏の中で地続きであることが(いや、実際に地続きなのだが)、やや世代的なギャップを感じさせてしまうものの、大学時代にたまたま野郎たちでツルむことになったクリスマス・イブの想い出などは思わずニヤリとさせられることは請け合いだろう。
まぁ我々の世代ではクリスマス・イブは煌びやかなイルミネーションで街が浮き足立つほどでもなく、恋人たちの一大イベントというよりも、まだまだ子供たちのものだったような気もするし、そもそも個人的には京大と比較するのも無茶な大学に通っていたこともあって、“私”やその仲間たちと共鳴するにはかなりの微調整が必要となってしまうのだが、総じて男子大学生の馬鹿さ加減とはこんなものだったという共感はある。
例えば、もしこれが東京を舞台にした東大生の話だとするとこの世界観は一気に漱石の『三四郎』や『それから』になってしまうのかもしれないが、あれはあれで男子大学生のお馬鹿ぶりを感じさせなくもないのだから、もしかすると森見登美彦は処女作ですでに普遍の真理を獲得してしまっていたのかもしれない。まぁ真理といっても「男子大学生はいつの時代もお馬鹿である」という普遍なのだが。
さて、私は森見氏の小説を中古本ながらまとめ買いしてしまい、この後も読書は続くことになると思うのだが、悪い意味ではなく、この森見ワールドは続けて読まない方がいいのかも知れないと思っている。何冊か間を置いてこのボキャブラリーの洪水と対峙すべきで、これがクセになって他が読めなくなったらかなり深刻な事態になるからだ。
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