◎十角館の殺人

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◎十角館の殺人
綾辻行人
講談社文庫


 【半年前、凄惨な四重殺人の起きた九州の孤島に、大学ミステリ研究会の七人が訪れる。島に建つ奇妙な建物「十角館」で彼らを待ち受けていた、恐るべき連続殺人の罠。生き残るのは誰か?犯人は誰なのか?】

 島田荘司『占星術殺人事件』と同時購入なので、手にとらないまま2ヶ月以上放置していたことになる。東野圭吾『容疑者Xの献身』の際に知った「本格論争」を横目に見ながら『占星術〜』に恐れ入って、次の法月綸太郎『生首に聞いてみろ』で少々萎えたりしているうちにほかのジャンルに手を出していたりと迂回しつつ、ようやく元の場所に戻ってきた感じだ。何となく勢いで購入してみたものの「十角館」といういかにも大時代的な舞台装置に怯んでいたというのも正直なところ。
 今、私が気になりはじめていることのひとつに、その本の持つ歴史的な意義や価値というものをどこまで意識するべきなのかということがある。例えば『占星術殺人事件』には「社会派推理ものが主流の時代に、あえて伝統的な本格ものに挑んだ島田荘司はすごい」という評価があり、その島田の後を次いだ綾辻行人には「島田が切り開いた大地に花を咲かせた二十二歳の大学生は大したものだ」という評価がある。
 確かに『占星術殺人事件』は松本清張の時代にあれをやったことはすごいのだろうが、ではその存在意義のみにあの作品の価値観があったのかといえばそうではなく、そこに普遍的な面白さがあるからこそ優れた作品なのである。同じことがこの綾辻行人の『十角館の殺人』にもいえるわけで、当たり前の話、「二十二歳大学生のデビュー作とは思えない」などという評価は作者にも作品にも失礼な話でしかない。
 しかしこれらの作品群を読むにあたっては、嫌でもそれらの認定事項というのは知識として蓄えられてしまうもので、“新本格”のムーブメントに「綾辻以前、綾辻以降」などという言葉があることまで知ってしまうと、そういうことが読書選択の動機づけになっている引け目もあって、作品の持つ時代性をまったく無視して作品の普遍性のみに価値を求めるのもまた苦しいことではある。この矛盾は評判を確認しつつ文庫本を手にとるということをやっている以上は仕方のないことかもしれない。

 四方を海に囲まれ、外界との接触が不可能な無人島に建つ十角形の奇妙な館。そこでお互いをエラリイ、ポウ、アガサ、オルツィ、ヴァン、カー、ルルウなどとニックネームで呼び合う大学ミステリ研究会のメンバーがひとりひとり殺されていく。しかも江南(コナン)に守須(モーリス)に探偵役が島田潔。もうそのことだけで十分に趣味の世界だ。当然のように彼らの会話の中に本格ものへのオマージュや薀蓄も語られ、モチーフとして『そして誰もいなくなった』も盛り込まれていく。
 確かにそういう意味ではこれがデビュー作である綾辻行人の若さを言及したくはなる。正直、私も殺人予告のプレートが出てきた時点まではそう思っていた。
 ところが綾辻行人が、読者のそういう先入観までも巧みに伏線として取り入れているのではないかと気づき始めるに至って、俄然、活字を追う目が冴えはじめてきた。優れたミステリーとは作者が読者をいかに掌の上で遊ばせられるかにつきるのだとすれば、この小説は間違いなく成功している。
 最後になってすべてが明らかになるたった一行のセリフには驚かされる。積み上げてきたものを短いセンテンスでひっくり返して、最後に整合性を納得させられることこそミステリーの醍醐味だ。そして本を閉じた読者が再びページを遡り、張り巡らせていた仕掛けを確認してため息をつく。これこそ作者の勝利というべきもので、読者も「やられた」と思いながら、読書に選択した勝利を味合うことができる。
 人物造形が多分に記号的であり、どっしりとした重厚感に欠ける恨みは残ったものの、最後の審判を受け入れる「主人公」の姿も余韻があって読後感は極めて良好。喰わず嫌いこそ読書の大敵だと思わせてくれた。
 これまた同時購入した『時計館の殺人』も続けて読むことにする。


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