◎ミレニアム3
◎ミレニアム3
―眠れる女と狂卓の騎士(上・下)
スティーグ・ラーソン(LUFTSLOTTET SOM SPRANGDES)
ヘレンハレム美穂&岩澤雅利・訳
ハヤカワ・ミステリ文庫
【宿敵ザラチェンコに重傷を負わせたものの、自らも瀕死の状態に陥ってしまったリスベット。この事件は、公安警察の特別分析班の元班長グルベリに衝撃を与えた。今回の事件がきっかけでそれが明るみに出れば、特別分析班は糾弾されることになるからだ。グルベリは班のメンバーを集め、秘密を守るための計画を立案する。その中には、リスベットの口を封じる卑劣な方策も含まれていた…】
我々はリスベットが12歳の時に父親にガソリンをかけて火をつけようとしたことにそれほどの驚きは感じていない。少女時代から凶暴な精神異常者なのではなく、火をつけたことにリスベット独特の正義感を読み取ることが出来るからだ。
「目には目を」が彼女の思考のど真ん中にある以上、そこに抑圧された日陰者の姿を見出すことも難しい。
事実、彼女はこの小説の登場人物の誰よりも巨万の富を得ている。騙し取った金であっても、いつでも優雅に海外旅行に行け、しかも三百五十平方メートルの大邸宅に住んでいる。それが例え二十一部屋の内で使用しているのがたったの三部屋しかなく、特上のエスブレッソマシーンを持て余し、ゴミ箱には冷凍ピザの空き袋が捨ててあったとしても。
ミカエル・ブルムクヴィストがリスベットの住処を探し当て、贅沢な間取りの中で殺風景な装飾に愕然とする場面、そしてミカエルが思わず“リスベットはたったひとりで世界を相手に戦おうとしている”と感慨を漏らす場面は『ミレニアム』三部作の中でも忘れ難い名場面になったのではないだろうか。一部の読者は彼女の絶望的なまでの孤独を思い、彼女を愛さずにはいられなくなるに違いない。正直言うと私がそうだった。
しかし、そんな読者の感傷をせせら笑うかのようにリスベット・サランデルは躍動する。曰く“親愛なる国家どの・・・・いずれとことん話し合おうじゃないの”と。
実際、振り払う火の粉を消しにかかる時の彼女の行動力は凄まじかった。求めるものは何不自由のない生活ではなく、人生を賭けてでも成し遂げるべき目標との出会いなのだろう。彼女にとっての自由とは、ただ「干渉されないこと」に収斂していく。それを獲得する結果が父親殺しであったり、司法への復讐であったりしても大きな問題ではない。
だから彼女は冷凍ピザの空き袋をゴミ箱に捨てるように、あっさり邸宅を放棄する。そのあまりにも潔い覚悟は、ハードボイルドの美学さえ漂わせているではないか。
ところが読み進めるうちにリスベットの極端なアマゾネス化が気になってくる。
オートバイクラブの荒くれ者ふたりをいとも簡単に蹴散らし、奪ったハーレイに跨って颯爽とストックホルムまで帰ってくるのは単純にカッコ良いいと思ったが、実は彼女はボクシングの世界チャンピオンも唸らせるほどの格闘センスの持ち主で、直接、ボクシング技術の手ほどきを受けたというエピソードが加えられていくことでアマゾネス化に理由づけがされていく。
リスベットが登場したとき、我々がまず最初に印象づけられたのがピアスにタトゥー、一見15歳くらいにしか見えない華奢な体つきという外見だった。その小さな身体で世間の抑圧と干渉に必死に抵抗している姿が健気でもあった。少なくとも後見人であるビュルマン弁護士にレイプを受けるまではそのイメージだった。
だからスタンガンでビュルマンを気絶させ、身体にタトゥーを彫るという荒々しい逆襲は、彼女のフィジカルの強さではなく、メンタルの強さをすんなりと受け入れられたのだと思う。よもやここまで彼女がマッチョだったとは思ってもみなかった。
そして『火と戯れる女』の最後のクライマックスで単身、父親のザラチェンコと金髪の巨人ニーダマンとの対決のため彼らの巣窟へと乗り込み、壮絶な死闘を展開して見せる件となって、これまでエンターティメントのあらゆる要素を盛り込んで奇跡的といえる面白さを見せつけてくれた『ミレニアム』が、ついにSFホラーのジャンルまで持ち込んだのかとびっくりしてしまったのだ。
回を重ねるごとに主人公が超人化していくパターンは映画でもよくある話だが、ジョン・マクレーン刑事でさえ、頭に銃弾を受けて土に埋められながら、そこから這い出してスコップで逆襲するなどといった無茶はしない。これはあまりに現実感がなさすぎではないだろうか。あまりに主人公を超人化させてしまうとサスペンスが希薄となり、何でもありに陥ってしまうものだ。
ここはリスベットが頭に銃弾を浴びて埋められたときに、警官隊を伴ったミカエルが現場に駆けつけ、金髪の巨人は逃亡し、傷を負ったザラチェンコは捕まるが正当防衛を主張する程度に抑えておくべきだったのではないだろうか。
この[読書道]と表した読書感想文に私は点数や星数での評点を付記することはしていないが(つけないことを美徳だとも思っているが)、このリスベット・サランデルのあり得ないアマゾネス化ははっきりと減点の対象だった。
と、ここまでが『火と戯れる女』の出来事だったので、またもダラダラと書きすぎてしまった。三部目の『眠れる女と狂卓の騎士』はこの驚愕のラストの数時間後からスタートする。
作家スティーグ・ラーソンが只者ではない証として、この最終章ではリスベット・サランデルは刑事被告人として物語の大半を病院のベットに寝かせ、拘置所、法廷へと搬送される囚われの身として一貫させたことかもしれない。
ピアスとタトゥーで武装した一見少女とも思えるヒロインは、国家機密の対象人物として存在し、ソ連からの亡命スパイを父親に持ち、冷戦時代は公安警察内部に組織された別働隊が国家予算の中で陰謀に加担していたという想像を絶する事実を抱えて生きている。
これは突拍子もないほどの飛躍ではあるのだが、その間に立って物語の芯を守っているのがミカエル・ブルムクヴィストと発行人を務める雑誌「ミレニアム」の粘り強い取材と調査だということになる。
そう、『ミレニアム』三部作の魅力はリスベット・サランデルのエキセントリックな個性に負うところが大きいのだが、全編を通じてきちんと狂言回しの役割を担っているのは彼らであり、「ミレニアム」誌のスクープは、スウェーデンという大きいのだか小さいのだかよくわからない国の暗部や、裏面史に隠された陰謀を暴き、三部作全体を通しての「弱者である女性への理不尽な抑圧への警鐘」を鳴らし続けていく。ある意味でリスベットは飛び道具としての役割を果たしていたのかもしれない。
ザラチェンコを巡るスウェーデン国家の諜報組織の描写は少々長かったが、読んでいて飽きることはなかった。欧州諸国に米ソ冷戦が落とした闇は、その間に高度経済成長に突き進んだ日本人には理解しえないものがあるからで、ましてバルト海を挟んでソ連と隣接しているスウェーデンの緊迫度は米軍に庇護された日本と比べるべくもないはずだった。
その闇を一身に背負って棺桶まで持って行こうとする老人たちが亡霊のように蘇り、またしても小説のトーンが何度目かの変節を迎える。
どうやら『眠れる女と狂卓の騎士』はスパイサスペンスとリーガルサスペンスの様相を呈していく。その「班」と名付けられた公安警察特別分析班の首領であるエーヴェルト・グルベリの半生を紹介しながら、そのグルベリがザラチェンコの病室を訪ねてあっさりと射殺してしまうのはかなりの衝撃だった。リスベットの暗殺も叶わないと見るや自分のこめかみに銃口を当て引き金を引く。この躊躇のなさに「班」の存在に命を懸けてきた男たちへの畏怖感を読者は感じざるを得ないのではないか。
しかし、ややエピソードを盛り込み過ぎてしまったか。エリカ・ベルジェの大新聞への移籍問題や、公安警察特別チームのモニカ・フィグエローラとミカエルとの度重なる情事などのエピソードも十分に面白かったが、本筋から外れている分だけ中盤からラストまでやや走りすぎてしまった感がある。とにかくこの三部作は登場人物が多い。
とくにグルベリ亡き後の「班」の存在から畏怖感が消え、途中から極端に矮小化していったのは残念だった。何十年も秘匿された諜報のプロの割には簡単に尻尾を掴まれ過ぎだったのではないか。ミカエルがいとも簡単に尾行や盗聴に気付くあたりは素人集団に成り下がったのかと思ったほどだった。
それでもリスベットと弁護士のアリカ・ジャンニーニの二人が、原告側のリカルド・エクストレム検事とその証人である精神科医ペーテル・テリボリアンと攻防を展開する裁判所場面は読み応え十分だった。
この三部作は最初の『ドラゴン・タトゥーの女』こそ「意外な犯人」という要素が盛り込まれていたが、基本的に女性に危害を加える者や偏見を持つ者はすべて憎むべき敵として描かれる勧善懲悪の構図をとっている。だから原告側の非道を弁護側が鮮やかに覆して相手を窮地へと追い込んでいく様はある種の痛快さを伴っている。
もともと『十二人の怒れる男』や『情婦』を持ち出すまでもなく、法廷での攻防ほど演劇的であり、映像的な空間はない。
これは現実の裁判のニュースでさえも思うことで、言い方を変えれば日常から法廷に一歩足を踏み入れれば、原告を演じる者、被告を演じる者が居て、それをジャッジする判事役がいて、日常を踏み越えてキャスティングされた当事者たちはその配役を演じていくとのが法廷という空間なのではないか。
ところが私は映画でこそ観てきたが、今までまともな法廷ものの小説を読んだことはなかった。強いていえばドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を思い浮かべる程度で、この三部作で検事と弁護士による丁々発止のやりとりを初めて堪能することになるのだから、この『ミレニアム』三部作のお得感は凄まじい限りだ。
この『眠れる女と狂卓の騎士』はその裁判シーンを最大のクライマックスとして、組織捜査の面白さも十分に堪能できるのだが、最後にリスベットはニーダマンと死闘を演じて、またしてもアマゾネス化してしまうのは、きっちりと完結する必要はあったものの、蛇足だと思った。
さて、『ミレニアム』という超ド級の大作を読んだことは間違いなく今年序盤の[読書道]のエポックメイキングとなったわけだが、読み終えてスウェーデンという国の通貨がユーロではないこと、裁判は陪審員制ではないことなど様々な知識を得させてもらった。
そして「日本が理想とする福祉国家」のイメージが壊れたことで、かえって私にはスウェーデンという国が魅力的に映っていった。
何よりもスティーグ・ラーソンというエンターティメント作家を生み出した土壌がこの国にあったことを喜びたい。
彼の早すぎる死は誠に残念ではあるが、執筆途中だった『ミレニアム』の四部作目を読めないことにそれほどの失望感は湧いてこなかった。それほどそれぞれ上下巻の6冊の『ミレニアム』の世界は豊潤に満ちており、もうお腹がいっぱいになったのだといわざるを得ない。
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