◎ミレニアム2

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◎ミレニアム2
    ―火と戯れる女(上・下)
スティーグ・ラーソン(FLICKAN SOM LEKTE MED ELDEN)
ヘレンハレム美穂&岩澤雅利・訳
ハヤカワ・ミステリ文庫


 【リスベットに復讐を誓うビュルマン弁護士は彼女の過去を徹底的に洗い、彼女を心の底から憎む人物を探し出した。その頃、月刊誌『ミレニアム』の発行責任者ミカエルらは、人身売買と強制売春の調査をもとに、特集号を刊行し、書籍を出版することを決定し、調査では、背後にザラという謎の人物がいることを掴む。リスベットも独自にザラを追い始めた。その矢先、彼女の拉致を図る者たちの襲撃を受けた!】

 純粋な読書姿勢なのかどうかわからないが、『ミレニアム2―火と戯れる女』を読んでいる間、この感想文の書くための色々なフレーズや修飾語を頭に浮かべてみた。しかし読了後にはそれらがすべてすっ飛んでしまい、まったく思い出せなくなってしまっていた。
 とくに上巻を一気に読んだ時点で、あまりの面白さに我ながら少なからず興奮していたことを思い出す。前作の『ドラゴン・タトゥーの女』はもしかすると稀代のヒロインであるリスベット・サランデルを登場させたという意味で、俗な言い回しをしてしまえば、巨大な予告編に過ぎなかったのではないかと。

 第二部は導入部分からリスベットのキャラクターが前面に出ている。百ページ強のスペースを割いた南米グレナダでのエピソード。一見ストーリーの骨子とは無関係と思われるものの、前作でまんまと巨万の富を騙し取ったリスベットの一人旅を描くことで、社会の抑圧と干渉から開放された素の彼女をご覧に入れようとスティーグ・ラーソンが意図したものなのだろう。何れにしてもシリーズを完全に支配しているのは彼女であると宣言したかのようだった。何せ精神障害を持つ無能力者のレッテルを貼られているリスベットは「フェルマーの定理」の難題に挑む知的さを見せつけているのだ。

 さて前作は解決不可能と思われる事件を、経済誌「ミレニアム」の発行責任者でありジャーナリストの“名探偵カッレ君”ことミカエル・ブルムクヴィスト(ようやく、この名前がスラスラと書けるようになった)を中心に、凄腕のリサーチャーであるリスベットが加担することで劇的な展開を見せるという内容だった。
 要するに調査報道を使命として、裏付けとなる資料を丹念に積み重ねていくミカエルと、天才的なハッカーであり、膨大な資料を一気に処理できる才能を持つリスベットという二人の調査のプロフェッショナルがタッグを組む捜査ミステリーという側面だ。
 橋が遮断された孤島での失踪事件に聖書に見立てられた連続殺人事件に、謎の暗号が一族の裏面史を浮かび上がらせていくという、仰天する程のオールドクラシックなミステリーのシチュエーションの中で、当時の報道写真や関係者の証言を辿って行く過程の面白さに加えて、文系のミカエルに理系のリスベットが奏でる相棒(バディ)小説としての痛快さとでもいうのだろうか、間違いなく第一作目のカタルシスはそこにあった。

 ところが第二部の『火と戯れる女』ではミカエルとリスベットはバラバラに行動する。二人が顔を合わせるのはごく僅かで、直接、言葉を交わす場面は殆ど用意されていない。
 しかも前作は依頼されて外から飛び込んできた事件だったが、今度の事件は当事者としてリスベットを直撃し、ミカエルも「ミレニアム」への寄稿記者が殺害される憂き目に遭うことで、相棒小説という前作のカタルシスをあっさりと放棄しながら事件はより深刻な方向へと雪崩落ちていく。

 「非常に孤独で変わった人物。非社交的で自分の殻に閉じこもるが極めて強い意志の持ち主で、独自の道徳観を持っている。自分がしたくないことは何があっても絶対にしないし、彼女の世界では物事はすべて“いい”か“悪いか”のどちらかだ」というのがミカエルの口から語られるリスベット評だ。また「非常に理性的な人間」とも。
 もちろん読者はそのことを十分に知っているのだが、殺人犯の嫌疑がかけられた彼女にスウェーデン社会は精神異常者のレッテルを貼ろうとする。
 リスベットを操ろうとして強烈な逆襲にあった後見人のビュルマン弁護士が、激しい私怨に燃えて彼女の抹殺を画策することで事件が唸っていく。そうなると第二部はビュルマンと手を組んだ暴力組織とリスベットとの攻防戦が展開されていくと誰もが思うことだろう。いや、それはその通りなのだが、彼女の存在が実は国家的な陰謀の中心にあったとなると、そのスケール感はもはや想像の域を脱してくる。

 実はこれを書いている時点で、私はすでに第三部『眠れる女と狂卓の騎士』まで完読してしまっているので、第二部の感想文として話をどこまでに留めておくべきか困っている。「第三部」は本作の直後の状況から始まるからだ。
 今にして思えば前作の『ドラゴン・タトゥーの女』は気鋭のジャーナリストが常識外れで不可解な女性を手なずけるために悪戦苦闘する物語だったのかも知れない。それがリスベットの出自が明らかとなり、物語がどんどん彼女の内部まで浸透していくのと、先述したミカエルの客観的な評価や、「一種のアルスベルガー症候群だろう」とするパルムグレン弁護士の分析などが絡み合って、リスベット・サランデルというヒロインが一気に読者に解き放たれていくのが第二部の最大の見どころとなっているのは間違いない。
 面白いことに、彼女が凶暴な無能力者として世間に晒し者にされ、マスコミの興味本位な憶測記事と、嘘か本当か幼馴染や学生時代のエピソードがタブロイド紙を飾り、レズビアンで悪魔崇拝者というイメージが作られていくと、我々は「いや彼女はそうじゃない」と知らずの内に弁護していることだった。
 こうして読者もまた彼女の本質を語る証言者になってしまっているのはスティーグ・ラーソンの卓抜した心理操作なのではないかと思ってしまう。
 
 ただし、彼女がなぜゆえに他人との接触を嫌い、自分の殻に閉じこもってしまったのかが明らかになる場面には個人的には一抹の不安を感じていた。
 特異な人物の成り立ちを幼少期に遭遇した虐待やトラウマに求める手法には食傷しているからだ(現実の事例としては圧倒的にその通りなのだろうが)。トマス・ハリスの『ハンニバル』で、何故ゆえにレクター博士が怪物となっていたのかの鍵がそこにあると知った時には少なからず失望したことを思い出す。
 そしてその不安はある意味では的中したのだが、それ以上にあまりにも意外で壮大な展開に変貌していったことに驚いてしまい、終いには不安を一種の抱いていたことすらも忘れてしまっていた。比べても意味のないことだろうが、スティーグ・ラーソンは完全にトマス・ハリスを凌駕していると思った瞬間でもあった。

 少々、長くなった。『火と戯れる女』の結末がそのまま『眠れる女と狂卓の騎士』に受け継がれたように、私の駄文もそのまま第三部へと流れていく方がいいような気がするので、この感想文も「次回へ続く」とさせてもらおうかと思う。

 

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