◎ミレニアム1

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◎ミレニアム1
    ―ドラゴン・タトゥーの女(上・下)
スティーグ・ラーソン(MAN SOM HATAR KVINNOR)
ヘレンハレム美穂&岩澤雅利・訳
ハヤカワ・ミステリ文庫


 読了まで正味一週間ぐらいかかったろうか。しかしこの本と対峙していた時間は夢中で、その消化していった時間は感謝したいほど幸福だった。ここまで面白い小説を読んでしまうと並みの小説では満足出来るのかどうかが心配になったほどだった。

 【月刊誌『ミレニアム』の発行責任者ミカエルは、大物実業家の違法行為を暴露したため名誉毀損で有罪になる。そんなミカエルに大富豪一族のヘンリック・ヴァンゲルから40年前に兄の孫娘ハリエットが失踪した事件の調査の依頼が来る。ミカエルはハリエット失踪事件に関する膨大な資料を調べる一方、背中にドラゴンのタトゥーを入れた女性調査員リスベットの存在を知り、彼女の協力を得ることに成功する。二人の調査で明かされる忌まわしい事実とは?】

 日本に上陸して以来、圧倒的な賛辞で迎えられ、国内の翻訳ミステリのあらゆる賞を独占した話題作。何でも全世界で6000万部を売り上げたのだという。まあ6000万部は帯の惹句なので相当高下駄を履いているのだろうが、ハリウッドリメイクも決まり、映画を観てしまったら絶対に読まないので文庫化を機会に上下巻を買い求めた。
 それにしても900ページのボリューム。巻頭には舞台となる地図が3ページ。「ヴァンゲル家家系図」には30名の名が記され、紹介されている登場人物は50名にも及ぶ。しかも主人公の名前はミカエル・ブルムクヴィストで、彼を名誉毀損で訴えた富豪の名前がハンス=エリック・ヴェンネルストレムという、字面を追っただけでは発音さえ怪しい名前が連なっている。先日読んだニューヨークを舞台にした『二流小説家』の主人公ハリー・ブロックとはえらい違いではある。
 そうスティーグ・ラーソン作『ミレニアム1/ドラゴン・タトゥの女』はスウェーデンの作家によるスウェーデンの土地で起こる物語で、要するに、のっけから馴染んでいるとは言い難い国から生れた本のポテンシャルに戦々兢々としながらの読書となった。

 それにしても、ここまでエンタティメイトとしての面白さに満ち溢れた小説だとは思ってもみなかった。上巻はまったく暗中模索の中でストーリーが展開し、気鋭の経済ジャーナリストのミカエル・ブルムクヴィストと入れ墨にピアスというパンキッシュな謎の女調査員リスベット・サランデルの二人がどのように交差して物語の核心に入っていくのかまったく先が読めない。
 それでも40年前の事件の謎と何代にも渡る一族の概要を説明されただけの上巻ですら苦もなく読み進めることが出来たのは、ひとえに膨大な背景説明の緻密さと複雑な人間関係を噛み砕くように進行させたスティーグ・ラーソンの筆致ゆえだったのではないか。フランス語版を入手して、そこから日本語に訳したという経路を辿ったにしては翻訳も適切だったと思う。

 特筆すべきはやはりスウェーデン小説であるということが、上巻の冗長さを苦もなく消化できた要因だったと思っている。
 我々世代にとってスウェーデンという国はまずフリーセックスの国というイメージで刷り込まれた。それから「揺りかごから墓場まで」の福祉の国という知識が入ってきて、ノーベル賞のホスト国であり、経済的にもサーブやボルボといった自動車メーカーがあり、映画では巨匠イングマール・ベルイマンがいて、グレダ・ガルボ、イングリット・バーグマンを輩出し、男女ボーカルグループABBAが70年代に登場するなどの認識に至るわけだ。
 この小説にも出てくるのだが、近年でも携帯電話のエリクソン社やアパレルチェーンのH&M、家具のIKEAなどは日本に進出し、スウェーデンについては他の北欧や東欧の国々と比べても私のような知識の浅い人間でもそれなりに馴染んでいたかのもしれない。社会主義の理想のように手厚い福祉があり、資本経済も堅調。さらに佐々木譲の『ストックホルムの密使』にもあったように戦時中も独立中立を貫いていたといった具合に、我々にはスウェーデンは理想国家に近いイメージがあったのだと思う。
 ところが当然といえば当然のことながら、どんな国にも暗部はある。月刊誌「ミレニアム」の発刊主旨は「庶民の貯蓄をばかげたITベンチャーへの投資に費やして金利危機を引き起こすような連中を監視して、その正体を暴くこと」にあり、「スウェーデンでは女性の13%が、性的パートナー以外の人物から深刻な性的暴行を受けた経験を有する」 「スウェーデンでは性的暴行を受けた女性のうち92%が、警察に被害届けを出していない」という統計も紹介されている。
 そういった資本経済が暴走している中で、強姦や殺人が多発している現実が物語の中枢に入り込んでいくのだが、それら現代スウェーデンが抱える病巣をストーリーが動かない上巻でじっくり読ませるあたりはこれが処女作であることが信じられないほど巧妙だった。

 もちろんスウェーデンの地形風土の緻密な描写も特筆すべきだろう。とくにミカエルがヘンリック・ヴァンデルに招待されて赴いたボスニア湾にあるヘーデビー島の細部に渡る描写は非常にわかり易く、真冬にはマイナス38度となって、そんな土地でよく生活できるものだと感嘆させることを含めて、読者を自然と事件の舞台へと誘ってくれる。
 思うにスティーグ・ラーソンは最初からこの処女作を国内流通に留まらず、世界中に発信させるつもりでいたのかもしれない。そうでなければ読了後にスウェーデンに対する理解がここまで広がっている筈はない。

 さて、40年前の失踪事件の真相を暴くという途方もない難題に困惑するミカエルに、ようやく糸口が見えてくるのは下巻に入ってからだが、そのミカエルと“ドラゴン・タトゥーの女”リスベット・サランデルがいよいよ会見するまでには下巻も更に100ページほど消化しなければならない。そして二人が出会った瞬間から導火線が点火されたように物語がジェットコースターのように滑り出していく。
 リスベット・サランデルのキャラクター造形が『ミレニアム』を大ベストセラーたらしめたことは、既に膨大な批評家たちが指摘していることなので、私が今更書いても仕方のないのだが、ピアスに入れ墨という見た目の異様さとエキセントリックな性格を別にしても、彼女こそが現代スウェーデンの病理そのものの体現者ということになる。
 リスベットは優秀な調査官であり天才的なハッカーであるが、徹底した弱者として登場する。スウェーデンは弱者への保護に手厚い制度を設け、それは日本とは比べ物にならないほどであっても、国の制度を運用していくのは人間で、その人間の手に負えないのがリスベット・サランデルだというロジックだ。
 スティーグ・ラーソンはリスベット自身の私生活での主観描写と、上司にあたるセキュリティ会社の社長や保護監察の弁護士による客観描写を併せてある程度のパーソナリティを確立していくのだが、彼女の行動基準は最後まで測定不能であり、まるで読者の困惑の海を悠々と泳ぎまわっている風でもあり、最後までミステリアスな女として一貫している。
 おそらく読者のリスベットへの興味が『ミレニアム』の第二部、三部へと読書を進ませる原動力となるのだろう。私もその例外ではなく、現在は『ミレニアム2/火と戯れる女』を読書中だ。

 トラックの衝突事故で橋が塞がれた島での失踪事件。まるで『犬神家の一族』かと思わせるような富豪一族の歴史的な因習や歪な人間関係。謎の暗号文や旧約聖書の「レビ記」を模した見立て殺人など、物語はクラシカルなミステリ要素を散りばめながら、ミカエルが一触即発の危機に見舞われるサスペンス描写も用意して、これでもかとエンタティメントの要素を注ぎ込んで行く。
 このあたりの展開についてはもっと書きたいこともあるのだが、ネタバレになるので書かないでおくが、40年前に撮影された通信社の写真を地道に、丹念に効率よく処理しながら真相を究明していくあたりは探偵小説の事件捜査と違い、記者による地道で丹念な取材に近い作業で、新鮮なワクワク感があったことは書き残しておきたい。

 それもそのはずでスティーグ・ラーソンはミカエル・ブルムクヴィストと同じくジャーナリストだった。
 そして、何とも劇的なことにスティーグ・ラーソンはこの本が出版される直前に心臓発作で他界したということだった。

 

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