◎ブラック・ダリア

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◎ブラック・ダリア
ジェイムズ・エルロイ(THE BLACK DAHLIA)
吉野美恵子・訳
文春文庫


 昨年冬の初めの頃。
古本屋でふと『ホワイト・ジャズ』というタイトルの文庫本が目に入る。作者はジェイムズ・エルロイ。
 以前から名前は聞こえてはいたものの、はっきりと意識したことはなかったが、そのとき何故か“エルロイ”という語感がビビットに頭に響いてきた。
そして文庫の帯に書かれた馳星周の〔あと書き〕
「“ホワイト・ジャズ”--わたしのバイブル。読むたびに、わたしの魂は揺さぶられる。激しく/残酷に/切なげに。」
 「読書道」の蓄積のひとつの成果としても、次のステージへの予感としても、これは読まねばならないという衝動に駆られいた。

 それからほぼ3ヶ月間、私は暗中模索の闇でもがき続けていたように思う。
 まず『ホワイト・ジャズ』を懸命に73ページまで進めて読書を中断した。挫折したつもりはないのだが、センテンスで切った単文が延々と連続している文体に恐れおののいた。本格的なノワールを読むのは初めてだったこともあって、とてもではないがこの調子で650ページの長編を完読するには経験値も耐性もないことを思い知らされた。
 馳星周の〔あと書き〕に救いを求めると、エルロイ初端から『ホワイト・ジャズ』と対峙するのは無謀であることを悟り、同時に『ホワイト・ジャズ』が「エルロイ、暗黒のLA四部作」の最終章であることを知る。結局、馳星周の第一作から読み始めるのがベストという有り難い忠告を受け入れて、改めて四部作のスタートである『ブラック・ダリア』を買い求めることになった。
 そしてエルロイが描出する流血と暴力の闇で何度も読書の中止が頭をよぎり、時には外出にも文庫を携行せず、仕事での外回りや帰宅の電車内で携帯電話にダウンロードしたゲームに気を逸らしながらも、とうとう完読まで三ヶ月を要してしまった。間違いなく「読書道」始めて以来の試練だった。

 【ロス市内の空地で若い女性の惨殺死体が発見された。スターの座に憧れて都会に引き寄せられた女性を待つ、ひとつの回答だった。漆黒の髪にいつも黒ずくめのドレス、だれもが知っていて、だれも知らない女。いつしか事件は〈ブラック・ダリア事件〉と呼ばれるようになった―。】

 ボクサー上がりのロサンゼルス市警巡査、バッキー・ブライチャートの一人称で語られる物語ではあるが、実際に大戦直後のハリウッドを震撼させた〈ブラック・ダリア事件〉に関わる多くの登場人物からなる複雑怪奇な群像劇でもある。とにかく次々と現れては消える、あらゆる階層の雑多な人物たちが織り成す人間模様は、大戦終結間もないロスの時代論、風俗論にもなっており、エルロイは読者を事件捜査の進捗と真犯人追求という興味で惹きつけながらも暴力とセックスに酔狂する人間たちの堕落をとことんまで文章に焼き尽くして行く。
 冒頭の献辞に「母、ジニーヴァ・ヒリカー・エルロイ(1915〜1958)に。二十九年後のいま、この血塗られた書を告別の辞として捧げる」とあり、文庫本の〔著者紹介〕には「十歳のとき、母ジーンが何者かに惨殺される。女性殺人に深くとらわれ、母の亡霊から逃れようとして作家になる」とある。
 私はノワールという小説ジャンルをずっと「暗黒街を舞台にしたギャングもの」だと思い込んでいた。これは中学生のときにジャン・ギャバンやアラン・ドロンのフレンチ暗黒街ものの映画をノワールであると刷り込まれたからなのだが、『ブラック・ダリア』を読んでノアールの本質とは単に舞台設定のことではなく、もっと精神性を帯びた色合いのものなのではないかと思った。
 同時にエルロイ自身の過去の出来事が投影された作品というファクターは見過ごせないことではあるのだが、そういう表層の先入観に囚われてしまっていいものかどうかという疑問に無為な時間を費やしてしまった後悔もある。
 全編に渡って繰り返される暴力とサディズム、流血の沙汰はあまりにも強烈で、スティーヴン・ハンターの『ダーティホワイトボーイズ』のようにバイオレンスがカタルシスに昇華することもなく、最終的には直截的な狂気ではなく冷めた理性の中で深化していく恐怖こそがノワールの到達点なのではないかと思った時点で、一応エルロイの世界観の一端は垣間見たと今回は満足しておこうかという結論となった。
 さて、自室の机に置かれた『ホワイト・ジャズ』まで果たして辿り着けるのかどうか。

 最後に蛇足をひとつ。未見だが『ブラック・ダリア』はブライアン・デ・パルマの演出によってブライチャートにジョシュ・ハートネット、マデリンにヒラリー・スワンク、ケイにスカーレット・ヨハンソンというキャスティングで映画化をしている。豪華な布陣だが、同じく「LA四部作」を映画化したカーティス・ハンソン監督の傑作『L.Aコンフィデンシャル』ほどの評判は聞こえてこなかった。


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