◎カウント・プラン
◎カウント・プラン
黒川博行
文春文庫
さる方から何冊か貰った本の中に黒川博行『カウント・プラン』があった。
さて困った。短編小説は苦手だ。
いろいろ理由はあるが、簡単にいえば読後のカタルシスが希薄だというのがある。
こんなページを作っておいて恥ずかしい限りだが、未だに書物と対峙するときの目標が「最後まで読み切ること」なのだ。
常に最初のページをめくるときに不安がつきまとうのは、次々と読みかけの本を積んでいった頃のトラウマから抜けていないからだろう。一冊の本の中に読みきりのエピソードが刻まれている短編には、いつでもキリのいいところで投げ出せという誘惑がつきまとう気がするのだ。
一方、作家の力量を読むには短編こそ相応しいことも知っている。
今、「好きな作家を一人挙げてください」と問われたら、「黒川博行ですね」と答えたいと思っている。しかし既読したのがたったの二冊のままでは話にならない。ある意味、それほど『疫病神』と『国境』のインパクトが強烈だったのだが、あの二編がすこぶる面白かったのは、もしかすると読破のカタルシスに依存していた自覚もないわけでもなく、ならば黒川博行のセンスを推し量る意味でも短編を読んで見ようかとなった。
【眼に入った物を数えずにいられない計算症の青年や、隣人のゴミに異常な関心を持つ男など、現代社会が生み出しつづける危ない性癖の人達。その密かな執着がいつしか妄念に変わる時、事件は起きる。】
短編といっても通奏低音がしっかりしているので、一気に読むことが出来る。そして「黒川博行が一番好きだ」という回答に幾ばくかの自信もついてきた。
高村薫が「大阪弁の台詞を書かせれば黒川博行の右に出るものはいない」といっていたとおり、『カウント・プラン』に収録された五編はどれも大阪弁のリズムによって刻まれている。内容は都会のダークサイドを描く陰鬱としたもので、サイコパスに分類されるようなものなのだが、矢継ぎ早の大阪弁が醸し出すギャップがユーモアとなって、それに乗せられてしまうのだ。
決して共通語を日常会話としている私だからとくに感じることではなく、方言がアドバンテージになっているだけかといえばそんなことは決してない。
「セリフで回している小説なんで、セリフが死んだらもうダメ。小説が死んでしまう。人物の性格でも、地の文なら1文で表わせるけど、それはイヤ。会話の中でそいつがどういうやつやということをにじみださせなあかん。やりとりをパソコンに打ち込んで、これ以上やると意味が通じなくなるというくらいまで削る。だから1日6〜7枚しか進めへんのですわ」
黒川博行が『悪果』を刊行した際にインタビューに応えている記事の抜粋だが、高村薫の「大阪弁で右に出るものはいない」というのは、大阪弁の会話を推敲し、縦横無尽に操作しながら読者を物語世界に引っ張り込む技術にひとかどならぬ努力を積んでいるという意味なのではないかと読んだ。
そういう会話のテンポもさることながら、犯罪者たちの異常な心理や病的な精神性をストーリーの底に沈殿させながら、捜査員たちの追跡が事件の核心に触れた瞬間に弾けるような加速感もストーリーテラーとして黒川の巧さだろう。
多分に登場人物たちが、記号化しがちな短編小説にあって、追う側と追われる側のそれぞれの人生さえも煤けて見せる表現力は、下手な長編一冊分以上のボリューム感があり、そこには『疫病神』の読後感と変らないカタルシスがあった。
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