◎オーデュボンの祈り
◎オーデュボンの祈り
伊坂幸太郎
新潮文庫
伊坂幸太郎のデビュー作。デビュー作だからというわけではないが、おそらくこの作品から読んでおけば『ラッシュライフ』『グラスホッパー』ももっと楽しく読めたのではないかと思う。そう、あくまでも「楽しく読めた」というのが肝要で、深層よりも表層の文体や文脈をもっと面白がることができたのではないかという意味で、決して「深く伊坂幸太郎を理解できた」ということにはならない。何だか伊坂幸太郎という作家と相対するスタンスとしてはその程度の距離を保つことが一番良い気がする。
【コンビニ強盗に失敗し逃走していた伊藤は、気付くと見知らぬ島にいた。江戸以来外界から遮断されている“荻島”には、嘘しか言わない画家、「島の法律として」殺人を許された男、人語を操り「未来が見える」カカシがいた。次の日カカシが殺される。無残にもバラバラにされ、頭を持ち去られて・・・。未来を見通せるはずのカカシは、なぜ自分の死を阻止出来なかったのか?】
上記のストーリーでもわかるように、伊藤が「世界と隔絶された島」の中をひたすら動き回り、そこで見たもの、感じたものがそのまま物語になっている。
『オーデュボンの祈り』はファンタジー色の強い作品だった。本人は否定しているようだが、寓話的だといっても問題はないのだろう。なにせ江戸末期の伊達藩の時代にすら舞台は跳躍していくのだ。カカシの優午が手塚治虫の火の鳥に思えた瞬間もあった。
かなり楽しくは読んだ。日比野も草薙も桜も田中もうさぎさんも愛すべき人物に思えたし、名場面と認めていいシークエンスもいくつか見つけることはできた。
しかし伊藤が数日間を過ごす謎の島に「未来を予見する口喋るカカシ」が出て来てしまう以上、そこに殺し屋がいようが、絶滅したはずのリョコウバトがいようが、もはや何が起こっても不思議ではない世界であり、伊藤が出来事のたびに驚愕することへの違和感はあった。とんでもない世界にあって、とんでもない事件をとんでもないことと認識させる作業は簡単ではない。そのあたりを伊坂がクリアしていたのかといえば、それは疑問が残った。
伊坂作品全体に思うことだが、非現実的な世界に身を置いた小市民である「僕」の無力さに時々ストレスに感じることがある。そして大抵は最後に「僕」が開き直るように躍動する転換がいつも突飛だと思う。
他にも道中を過ごす日比野に対する「僕」(伊藤)の全編にちりばめられた評価が、やや単調に思えた。そのわりには「僕」がふとした理由で会社を辞めるのはいいが、コンビニ強盗までしてしまうことへの掘り下げることをしないのはどうしたものか。それともデビュー作でありながら、その箇所を不誠実のままやり過ごすセンスに驚くべきなのか。
世界と隔絶された荻島ではあっても、現世と隔絶されているわけではない。世間の日常と地続きの次元に存在し、実際、島の出入りを唯一認められている轟は、船で自由に仙台に行き来することは可能で、荻島は「別次元の島」ではなく「忘れられた島」にすぎない。そのあたりの中途半端で微妙なバランスがファンタジーでありながらも夢物語にはならない面白さがあるのかもしれない。いや実際は面白かったのだ。
この作品は『新潮ミステリー倶楽部賞』を受賞しているものの、特異な状況下で、作家が創造した世界観の中で特別ルールが設けられている舞台なので、純然たるミステリーだとはいえないだろう。
しかし伊坂作品の通奏低音である“神様のレシピ”というテーマの中で、バラバラになっているピースをはめ込んでパズルを完成させる作業は「ミステリー的作為」ではあるのかと思う。実際、この物語はどのような決着を辿るのか、先行きの予測がまったくつかないまま読み進めていくことにミステリー読みの醍醐味はあった。
もっともカカシの優午が予見した結末になるように伏線を散りばめていく手法は、本来、作家が小説のプロットを編んでいく過程の作業であるはずで、それを物語そのもののに投げてしまうのは面白いといえば面白いし、新しいといえば新しい。でもズルイといえばズルイことかもしれない。“神様のレシピ”は言い換えれば“神様は確信犯”であり、つまりは“作家の掌中”であるともいえるのだ。
私もなかなか素直ではないので、十歳も若い作家の掌に乗せられるのは少なからず癪ではある。しかし、だからこそ伊坂幸太郎の掌の中で素直に遊ぶことができる若い読者を羨ましくも思うし、この作家がわずかの間に絶大的な人気作家になったのも納得することができる。ストーリーの先は予測できなかったものの、このデビュー作にして伊坂幸太郎が早い時期に大成するとの予測はできたのではないだろうか。
何だかんだといっても、新人作家にして成熟した世界観とオリジナリティを持ち合わせていたことは驚異なのだから。
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