◎白夜行

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◎白夜行
東野圭吾
集英社文庫


 全860ページ。文庫本を買って既に7年。読破したというよりも成就したという感覚に近い。奥付を見ると「2003年第4刷」とある。紀伊国屋新宿本店の棚で確認してみると昨年中に43刷を数えていた。何でもトータル130万部を超えたという。

 私はこの本を凡そ十日間で読んだ。喫茶店などにこもって読んだわけではなく、殆どを帰宅途中の電車内か就寝前にページを開いていた程度だった。それを考えると、文庫のぶ厚さにしては読み終わるのが早かった。それだけ一回の読書にかなり集中できたということで、これはひとえに作家の力であり、『白夜行』という小説の力だったと思う。
 しかし、結果的に1日平均80ページ以上も読んでいたのだから、相当引きこまれていたのは間違いないところだが、不思議と「面白かった」という感想が出て来ない。残るのは何とも暗い感銘のカタルシスだった。実はそこに『白夜行』という小説の特異性があるのではないか。

 【1973年、大阪の廃墟ビルで一人の質屋が殺された。容疑者は次々に浮かぶが、結局、事件は迷宮入りする。被害者の息子・桐原亮司と、容疑者の娘・西本雪穂はその後、全く別々の道を歩んで行く。しかし二人の周囲に見え隠れする、幾つもの恐るべき犯罪。だが、何も「証拠」はない。そして19年の歳月が流れていくのだが…。】

 ある少年と少女の物語だ。物語の最後には二人とも30手前まで歳月は流れていくのだが、印象としては大阪の片隅の辺鄙な町にたたずむ少年と少女という原風景に最後まで支配されていく。
 巻末の解説で馳星周は「〜私は嫉妬した。ノワールの書き手として、ノワールを書くことに人生を捧げた者として、東野圭吾に嫉妬した。」と最大限の賛辞を贈る。
 ノワールの第一人者のこれほどストレートな物言いにも驚くが、曰く「主人公ふたりの内面は一切描かれない。行動ですらすべてが描写されるわけではない。にもかかわらず、物語がすすむにつれ、ふたりの背中には哀切が漂いはじめる。」となる。
 確かに主人公二人は常に客観描写の中にいる。正確にいえば、彼らと関わる人間たちの印象の中でしか彼らは語られることはない。犯罪に手を染めていることは間違いないのだろうが、すべてが状況証拠と心証の積み重ねでしかなく、内面どころか行動や動機すらも明らかにされていない。
 確かに怖い小説だ。この「怖さ」をノワールと名付けるのならば、それはそうかもしれないと思う。

 私は東野圭吾の小説を読むたびにこの作家の作劇手法に目がいってしまう。
 実際、『宿命』『ブルータスの心臓』『容疑者Xの献身』『分身』とそんなことを思わせる小説ばかりを読んできた。馳星周が東野を称して「トリックスター」と名付けるのもよくわかる。
 少なくとも東野圭吾が原稿用紙に物語を綴っていこうとする際には特別な動機づけがあるに違いない。「こんな物語を書きたい」というよりも「この物語をこんな構成でやってみたい」ということなのだろうか。しかしそんな形で仕上がった小説がある種の感銘を読者に与え続けているのだから率直に凄いと思う。

 『白夜行』は一応ピカレスクなクライム・ストーリーということになるのだろう。主人公たちに共感するしないは読者の感覚に委ねられている。
 雪穂と亮司によって、ある者は命を奪われ、尊厳を失い踏みつけられていく。困ったことに周囲の人間がバタバタと落とされていく様を楽しむ悪意を喚起されたような気もする。
 なるほど読者の立場は常に正義の側に身を置く必要はない。ときには悪に身を染めてみるのも自由なのかもしれない。
 しかし、直接、彼らが犯行に及ぶ描写は省かれているので、読者も大阪府警の笹垣刑事のように19年間の状況証拠だけを重ねて想像していくしか術がない。

 『白夜行』は、長い物語の大半で状況証拠が延々と重ねられ、その行間に我々の想像力が漂うという不思議な構造を持っている。
 だが共感は読者に委ねられているものの、当のふたりは共感も同情も求めず、後悔も懺悔もなく、ただひたすら無人の白夜を歩き続けていく。読者が一番に共感できるのだとすれば、そんな生き方のある種の潔さなのだろうか。


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